※ 2004年度の部誌に発表した「蒼い夜明け」の改稿/改題作品。


蒼の向こう側



ああ、と思ったときには遅かった。
そのときにはもう、苦痛が思考の殆どを支配する。息が出来ない。痛くて苦しい。笛を吹くような呼吸音が耳につく。
見開いた目は確かに世界を捉えているはずなのに、けれどまるで貧血のときのように視界が真っ暗になったような気がした。見えていないはずはないのに見えない。更に深い恐慌状態に陥ってますます症状が酷くなっていく。
溺れる者が藁にでも縋るように、手の感覚だけを頼りに無我夢中で鞄の中の吸入剤を探った。
がちゃがちゃと物がぶつかり合う音を聞きながら、持ち慣れたかたちを必死に求める私の手を、不意に誰かが押さえた。
誰かと問うことも出来ず、認識することの出来ない目をその気配の方へ向けると、その手は優しくこちらのそれを握ってきた。
そのまま強く引っ張られる。
その瞬間、深い水の底から水面に浮き上がるような抵抗と強い浮上感が苦痛を押し退けて私を支配した。

何処に連れていかれるのだろう、と思った瞬間には、もう。



がくん、と階段から落ちたような感覚に、我に返った。
思わず周囲を見回すと、向かい合わせに作られた椅子と誰も居ない寂しい車内が私を迎えた。
ごとんごとんと重苦しい規則的な音が、電車に乗っていたことを思い出させた。
どうやら眠ってしまっていたらしい。
それにしても厭な夢だった。現実に発作が起こらなかっただけ僥倖といえるかもしれないが。
ふと視線を落として、隣に置いたバッグが床に落ちているのに気付いた。中身が殆ど散乱してしまっている。
誰も乗客がいなくてよかったと思いながらコンパクトやら手帳やらを詰め直す。普段は使用しない黒革のハンドバックは使い勝手が悪い。入れる順番を考えないと荷物が入らなくなってしまう。
最後に、蓋の緩んだペットボトルを拾い上げて窓際の台に置いたところで私はあるべきものがないのに気付いた。
一気に血の気が引いていく。
いつも必ず持ち歩いているはずの吸入器を置いてきてしまった。
それは私の命綱といってもいいほど重要なものだ。
慌てて座席の下や、車内の床をくまなく調べたが、やはり何処にも見当たらない。
どうしよう、という言葉が頭を駆け巡った。
よろよろと席に戻り、僅かに震える手を押さえて殊更静かに深呼吸を繰り返す。
落ち着け、と必死に自分に呼びかける。
此処で喘息の発作を起こしてしまったらそれこそどうしようもない。それを抑えてくれる薬がないのだから。

数分ただ無心で呼吸を続け、やっと落ち着きを取り戻す。
何という失態だろうか、こんなときにあれを忘れるとは。
余程私は動揺しているらしい。
無理も無いことだけど、とクローゼットの奥から掘り出してきた型の古い喪服を見下ろしつつ溜息をついた。

終点まであとどのくらいだろうか。
窓の外は記憶より随分と明るくなっている。
呆れたことに、吸入器以外にも私は携帯や腕時計まで自宅に置いてきてしまっていたらしく、時間の確認が出来ない。
他にすることもなく、私はただ淡々と過ぎ去っていく景色を眺めていた。

何度か通った道ではあるが、夜の明ける直前の風景など滅多に見る機会がなかっただけに、その景色のひとつひとつが新鮮だった。
確かに知っていると思った街並は、不気味な静けさの中でまどろみ眠る巨大な怪物のようにも見えた。
無機物である建築物の、更にその集合体が睡眠を取るということなどありえないが、その静謐はひとにはあらざる領域のものにしか見えなかった。
ひとの知らない、世界の姿。

ぼんやりとそれに見惚れていると、何処からともなく霧が立ち込めてきた。
夜明け前の深い蒼空の色をそのまま吸収したかのような不思議なそれが、生きているかのような速さで眠る街をあっという間に取り囲んでいく。
音もなく忍び寄る霧の中に沈んでゆく景色を、私は息を呑んでじっと見つめていた。
水が滑るような動きで空気を侵食していくその動きは酷く滑らかで、何処か禍々しさのある冷たい艶を感じさせた。
それなのに、どこか懐かしい切なさも秘めている。
そんな霧の触手から垣間見える街並みは、酷く幻想的な異界に見えた。
何処までも遠く突き放しているくせに、此処へおいでと誘っているような。
そんな想いに、今すぐにでもあそこへ辿り着きたい衝動に駆られた。
けれど、今の私に出来ることは、その朝と夜の狭間にある世界の美しさに感嘆することだけだ。

気分が高揚していく一方で、心の別の部分は逆に落ち込んでいく。
そっと瞼を伏せたとき、誰かの視線を強く感じた。
顔を上げて車内を見渡すが、両隣の車両にすら誰もいない。
窓の外にまで目を向けると、過ぎ去る住宅街の階段に佇む人がいるのに気付いた。
距離と霧のせいで性別や格好は分からないが、確かに誰かが居る。
よく見ようと顔を窓に押し付けるようにしたが、あっというまに階段は遠ざかって見えなくなってしまった。

あれは誰だったのだろう。

あの街の中で目覚めているひとなど居ないだろうと思っていた私は酷く驚き、そして少しだけ落胆した。
あれは近く遠い異界ではなく、現実にある光景なのだ。

窓の外の風景から目を離して、背もたれに身を委ねた。
向かいの座席には誰も居ない。
それが酷く寂しくて、そして虚しい。
空白の座席を見続けることが出来なくて、私は其処から目を逸らして、また流れて行く景色を淡々と見送ることにした。

霧が晴れる様子は一向になかったが、次第に蒼には白が混じり始め、真昼の空に色が近くなってきた。かけられていた青いフィルターがどんどん色を薄めていく。
それとともに、死んだように静かだった街がざわめき始めるのが分かる。
日の出とともに活気を取り戻していく風景とは違って、私の心は次第に絶望に傾き始めていた。
もうすぐ駅に着いてしまう。

駅、という言葉を思い出して初めて、私はこの電車が一度も止まっていないことに気付いた。
時計がないから正確には計れないが、普通なら何回か停車していておかしくない程度の時間が流れているはずだ。それなのに、電車は何処にも止まらない。駅を通り過ぎることすらなかった。
何かがおかしい。

思わず窓の向こう側を縋るように振り返った瞬間、私は殴られたような大きな衝撃に目を見開いて硬直した。

途切れることのなかった街並の端に、私に向かって穏やか笑んで佇む、


彼が居た。


全身の肌が一気に粟立ち、血がざっと顔から引いていく音が聞こえる。眩暈がした。
嘘でしょう、という言葉が言葉にならず、ひゅぅっと喉が鳴る。


だって彼がいるはずはないのだ。

私はこれから彼の葬式に出るためにこの電車に乗っているのに。


――――――――


彼と私は結婚を約束した間柄だった。
けれど、いわゆる名門と呼ばれる家の出だった彼と、平凡な家庭に生まれ育った私のそれを、彼の家族は猛反対した。
私たちは何度もこの電車に乗って彼の家に許しを請いに通ったがその度に追い返され、最後は殴られた。
それでも彼は諦めようとしなかったのだろう、今度はひとりで自分の親を説得しに家に向かった。そして駅からバス停に向かう途中の見通しの悪い交差点で、車に撥ねられてあっけなく逝ってしまった。
案の定、彼の死が私に知らされることはなく、彼の親しかった友人から教えて貰わなかったらきっと葬式が終わっても知らないままだったろう。
行ってもすぐに追い返されるに違いないと思いつつも、私は向かわずにはいられなかった。
置いていかれたという事実を認めたくないと駄々をこねる私の幼い部分にそれを認めさせるには、認めざるを得ない状況に自分を置くしか解決方法が見当たらなかった。

血を吐くような思いで家を出てきたのに、何故彼はあんなところで笑っているのだろう?

かちかちと歯が噛み合う音がする。
瞬きをしても彼は消えない。それどころかこちらに手を振ってきた。電車の流れが酷く遅く感じる。
彼を凝視するうちに、最初のあの視線もあの人影も、彼だったのだと理解する。
ひ、と悲鳴じみた短い音が喉の奥から這い出た。
絡み付いてこようとする何かを振り払うように、私は激しく首を振った。
あんなものは幻だ。生きていて欲しかったという私の思いがきっと都合の良い幻覚を生んだに違いない。
私は膝の上に上半身を投げて固く目を閉じ、早く電車が終点に着くよう祈った。

どうか早く。早く。
私があの幻を信じてしまう前に。


――――――――


がたん、と電車が大きく揺れた。
体がそれを追うように傾いて、意識が浮上する。
起き上がって目の端に触れると、涙が乾いた跡のようなざらりとした感触があった。泣いていたらしい。
次に、窓の外をおそるおそる覗いてみると、真っ白な霧に閉ざされていた。怯えた表情をしている私の顔がはっきりと映る。
あれはやはり夢だったのだ。
ゆるゆると息を吐いて、私は力を抜いて背もたれに寄りかかった。
電車が速度を緩めていく。
――ああ、駅に着くのか。
滲む視界をはっきりさせようと何度か目を拭っているうちに、完全に電車が止まった。
空気の抜ける音とともに扉が開く。
構内は、僅かに青みがかった白い霧に埋もれてしまっていた。
しかし、いつまで経っても扉が閉じる気配がない。
何故だろうという疑問は、この駅は何というのかという疑問に変わり、そして到着する際にアナウンスがなかったということを思い出した。
駅名を確認しようにも濃すぎる霧のおかげで何も見えない。
何故だか突然降りなくてはいけない感覚に襲われて、私は立ち上がった。此処が私の降りる駅であるならよし、もし違ってもすぐ車内に戻るか次の電車を待てばいいのだ。

そっと霧の中に足を踏み出す。
意外なほど固い――それは本当は当然のことなのだけれど――アスファルトの地面が私を迎えた。
きょろきょろと目的のものを探す私の肩をぽん、と誰かが叩いた。
思わず悲鳴を上げて飛び退ったが、その誰かは今度は腕を掴んできた。
どうしようと慌てている間に、電車の扉が無情な音を立てて突然閉まる。
そしてそのまま滑るように構内を出て行った。
それとともに、するすると幕が引くように霧が引いていく。 呆然とする私の横で、くすくすと笑う気配がした。

聞き覚えのあるそれに、まさかと思って振り向けば、
「……何で」
「酷いよね、せっかくこっちが手を振ったのに無視するなんて」
私を責める言葉とは裏腹に、彼は酷く楽しそうに笑う。
あれは幻ではなかったのか。
へたりと力が抜けてその場に座り込んだ私を、彼は簡単に引っ張り上げて近くの椅子に導いた。
「あなた、死んだんでしょう?」
「うん、死んだよ。でも君だってそうだろう?」
目が点になるとはこのことをいうのか。
呆然としている私の目の前をひらひらと彼の手が横切る。
「おーい?」
「もしかして、最初の発作の夢も現実……?」
彼はくすくすと喉の奥で笑うだけで答えないが、多分そういうことなのだろう。
電車の中でひたすらうろたえていた自分が馬鹿に思えてきて、何だか泣きそうになった。
そんな私の頭を、彼はぽんぽんと優しく撫でる。
「置いていったのは悪かったけど、迎えに来たから許してくれる?」

行こうか、と私の手を引いて駅を出た彼の向こうに、あの蒼い霧の街が広がっていた。



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