灯り椿


宵闇に、赤い椿の灯火がぽつりとひとつ。
ゆっくりとした歩みにゆらゆらと揺れ、その軌跡を追うような軽やかな笑い声はふたつ、いつまでも楽しげに響いている。








「――想子さま」
そうこさま、と幾度も甘く切なく呼びかける女の声が聞こえた気がして、少女は白い瞼をゆっくりと持ち上げた。
何かとても、美しくて恐ろしい夢を見ていた気がする。けれど印象だけがただ強く焼きついていて、肝心の内容は既に記憶からぽろぽろと零れてしまって掬えない。
そろりと首を動かすと、貧血気味なのか、ぐるりと世界が回った。
目眩をこらえていると、気配に気づいたのだろう、畳の上を滑るようにやってきた女が心配げに彼女の顔を覗き込む。

血のように濃く、炎のように意識を惹きつけてやまない、真っ赤な瞳。

「千寿は不思議な目をしてるのね」
長く喋ることのなかった喉に声が引っかかり、耳に届いたのは掠れた溜息のような音だった。
不思議そうにぱちりと瞬いた千寿の目は、いつもの通りの濡れたような漆黒。それを柔らかに細めて、彼女は想子の顔を覗き込んだ。
「おかしなことを仰いますのね、想子さま。ご気分はいかがです?」
ほっそりとした身体付きにきびきびとした身のこなし、整った鼻梁はそれだけで見惚れるほどの艶やかさ。
着物も女中という身分からか地味で質素なものの趣味は良く、水仕事をしているだろうに指は細く白く、白魚という言葉がよく似合う。
あっさり結い上げた黒髪が一筋二筋零れているうなじを見せ付ける襟の抜き具合といい、思わず見ているこちらが溜息をつきたくなるほどの婀娜っぽさだ。
こんなところで死にかけの娘の世話などしなくても、幾らでも幸せを掴む道はあるだろうに、と想子は少し残念に思いながら彼女を見上げた。
その視線をどう受け取ったのか、千寿は小首を愛らしく傾げて頬を寄せる。久々に主人の意識が回復したからか、ほんのりと頬を染める彼女は嬉しげだ。
「何か、欲しいものがございますか?」
ゆったりと響く甘やかな声は、金で作られた鈴の音か、或いは舌の上で転がして溶けた金平糖のよう。
ゆっくりと首を振ると、たおやかな腕が着物の裾から伸びて、起き上がることの出来ない想子の額にそっと掌が置かれる。
そのひんやりとした感触に、身体の熱っぽい想子は気持ち良さそうに目を細めた。
「ねえ、千寿」
「何でしょう、想子さま」
「此処にいてね」
「ええ、おりますとも。この千寿が想子さまのお傍を離れたことがございますか?」
どこか自慢げに胸を張って伝えられたその言葉に、ひどく大人びた顔つきの娘は小さく吹きだした。
「そうね、……生まれたときからずっと私の傍にいてくれているものね、千寿は」
「想子さまがお望みなら、どこまでも千寿は共に参ります。お傍を離れたりは致しませんわ」
ですから、ご安心なさいませ、と。
消え入りそうな声にこっそりと隠された不安を、いとも容易く見抜いて打ち消し、千寿は悠然と笑んでみせた。
「ねえ想子さま。何かありましたら、すぐに千寿を呼んで下さいませね」
「夢の中でも?」
「ええ、いつでも。そうしたらすぐに千寿が参りますわ。ですから、ねえ、絶対に呼んで下さいませね」
「届くの?」
おかしげに瞳を上げる想子に、大真面目な顔で千寿は頷く。
「届きますわ。千寿は耳が良いのです」
「本当かしら」
「本当ですとも。お疑いならどうぞ一度、夢の中で千寿の名前を呼んで下さいまし。わたくし、お許し頂けるなら想子さまの夢の中にお邪魔してみたいとずっと思っておりましたの」
「まあ。じゃあ今度、絶対に呼んであげるわ。すぐに来てくれなかったら怒るわよ」
「それは大変。それでは千寿、全力で想子さまの夢の中に駆けつけますわ。裾をからげていてもはしたないとお怒りにならないで下さいませね?」
どちらからともなく視線がかち合い、彼女たちはくすくすと笑い声をこぼした。
息継ぎの瞬間に軽く息を吐いて、想子は睫を伏せた。
「千寿と話すのは楽しいけれど、ちょっと疲れてしまったわ……」
「まあ、無理はいけません。お休みになっていて下さいませ。その間に粥でも持って参りましょう。……召し上がれますか?」
「少しくらいなら、大丈夫」
「では、ご用意して参ります」
お願いね、と千寿に声をかけて想子はふっと力が抜けたように眼を瞑った。



そのまま再びすうと寝入った少女を優しく哀しげな眼差しで見下ろして、千寿は痛ましげに眉をひそめた。
ひたすらに主に注いでいた視線をふっと外して部屋を見回す。
彼岸も終えて、季節は一気に冬へと傾き始めている。夕暮れの部屋は薄暗く、艶の良い柱や畳の色もくすんで見えた。
幼い娘ひとりには広く、そして寂しい部屋だと、こうした瞬間いつも思う。
思うけれど、一介の女中に過ぎない千寿には、どうすることもできないことだ。

想子がこのように寝付いてから、もうひと月ほどが経っている。
いつになく長い患いに、さしもの彼女も不安が隠せなくなってきている。
その上、一向に具合の良くならない娘は、家の者たちからも既に見放されているようだった。
一応医者の往診は定期的にあるものの、家族の誰も見舞いに来ることはない。
裕福な商人である父親は家の中でも忙しげで、幼い長男にも構うのがやっとという状況なのに、その病弱な姉の相手などしていられるか、という雰囲気を漂わせている。
一番親身になってくれそうな母親は、とうに三途の川を越えた身である。
情の厚い彼女が生きていてくれれば想子の寂しさも紛れただろうか、と詮無いことを考えて、千寿は溜息を吐いた。
彼女自身は誰が見舞いに来ようと来まいと構わないのだけれど、家族を慕っている想子が密かに寂しがっていることは知っていた。だから千寿は彼らが嫌いだ。
口にはあまり出さないが、千寿を見つけたあとでも時々何かを探すようにふらりと彷徨う視線は、間違いなく父の姿を、彼が自分を気にかけてくれている証拠を求めるものだった。

「……早く、良くなって下されば良いのだけれど」
数日ぶりに意識を取り戻したと思った想子は、けれどまた、すぐに眠りの淵に舞い戻ってしまった。
投げ出されている痩せた腕を取って、布団を掛け直してやる。大柄とはいえない千寿の掌にさえすっぽりと収まってしまう、小さな手。
「せめて楽しい夢を、ご覧になって下さい」
顔にかかった前髪を払いながら、千寿は祈るように囁く。

どうかあと少し、そう、せめて、雪解ける春まで――

細く開いた障子から覗く、雪を被った椿を眺めながら、千寿は再度呟いた。


想子の生まれたときのことを、千寿はよく覚えている。
大層な難産だった。初産の奥方も緊張と不安のせいかより一層辛そうで、経験を積んだ産婆でも苦労するような、それは大変な夜だった。
外まで聞こえるその呻き声に、千寿もはらはらしながらそのときを待ったものだ。
明け方、大分弱々しくはあったが、赤子の泣き声が聞こえてきた折には安堵のあまり卒倒する者まで出る始末。
彼女もほっと息を吐いて、湯の用意だ何だと慌しい産屋をしばらくじっと眺めていた。

そんな騒ぎも収まった頃、抑え切れない好奇心を抱えた千寿は、女中たちが席を外した隙を狙ってそうっと部屋に忍び入った。
そして見つけた、母親の隣に横たえられている、白い産着に包まれた想子から、千寿は目が離せなくなってしまった。
片腕にすらすっぽりと収まってしまいそうな小さな小さな体躯。深く寝入っているらしく、千寿がそっと頬に指を這わせてもくうくうと愛らしい寝息を立てるばかりの彼女に、一瞬で魅了された。
「わたくしが、守って差し上げます」
気付けばそんな誓いを口にするほどに。

その瞬間から、この娘が彼女の全てになった。


想子を産んでから体を壊してしまった奥方と腰の悪い乳母の代わりに、新入りの若い女中ながらも、千寿はよく想子の面倒をみていた。
その頃からすでに体の弱かった彼女を長いこと連れ回すのは無理だったけれど、彼女を負ぶって庭を散策する、その短い時間は千寿の何よりの楽しみだった。
その、背中にかかる重みと温かさを千寿は忘れたことがない。
「想子さま、庭の椿が咲いておりますよ」
「きれいね」
瞳を輝かせて椿に見入るその姿に、彼女はくすぐったいような気分になってほんのり笑みを浮かべる。
その中でも奥の方に植えられた、一際赤く華やかな椿を彼女は殊更お気に召したようで、毎年時期になると想子はその花をよく気にかけて眺めていたものだ。

もの思いからふと我に返り、今にも泣き出しそうな顔を袖に隠した彼女は、悔しさを押し留めて唇を強く噛んだ。
去らぬ病魔のせいで大分艶を失ってしまった髪をそっと撫でて、千寿は囁く。
「ねえ想子さま。椿はあなたのために咲こうと頑張っておりますわ。ですから、ですからどうか、せめて、咲くのを見届けて下さいませ」
憔悴した声は、昏々と眠り続ける主のもとまで届いているだろうか。それを気取らせる気は毛頭ないけれど、想子を思うこの気持ちが届いていることを千寿は願った。
もう彼女は長くない。
それは医者の診断からも明らかであり、何より、想子の一番近くにいる千寿にそれが分からないわけがなかった。

だからこそ気持ちは急き、ひどく緩やかに日々は過ぎ行く。
祈りが欠片でも神仏に届いたのか、想子のからだは回復に向かうことはなかったが悪化することもなく、厳しい冬の季節を迎えてもそのいのちは未だ此岸に留まっている。
久々に起き上がった彼女の髪を椿の櫛で丁寧に梳きながら、千寿は早く春が来ることを祈っていた。
暖かくなれば、身体を壊す心配が少し減る。それに何より。

――雪の季節を越えれば、椿が咲く。

髪を梳く手が止まったことに気付いた想子が、小首を傾げて後ろを振り返る。
「大丈夫? 何だかこの数ヶ月で千寿の方がやつれてしまっているようだわ」
そっと頬に伸ばされる腕に手を添えて、いいえと彼女は首を振る。確かに多少痩せたが、そんなことは問題ではない。
「想子さま。身体が冷えない内にお布団へお戻り下さいませ。何なら子守唄でも歌って差し上げますから」
「あら。大丈夫よ、千寿。子守唄がないと眠れないほど私、子供じゃないわ」
頬を膨らませた想子の抗議に、本当に久々に声を零して千寿は笑った。
「もう、失礼ねえ」
申し訳ございません、と返す言葉は震える体のせいで上手く言えなかった。
想子はそんな侍女の態度にますます機嫌を損ねたようだったが、ふと何かを思い出したらしくことりと首を傾げた。
「そういえば、あの椿は大丈夫かしら。今年も随分寒いでしょう」
「大丈夫ですよ、想子さま。想子さまが気にかけて下さっている限り、枯れたりなどするものですか」
千寿はそう微笑んだが、想子は納得がいかなさそうに唇を尖らせた。
「そう? でも何だか雪がいつもより積もっているみたいだし、枝が折れたりしていないかしら」
「想子さまの代わりにわたくしが世話をしておりますから。お元気になったらどうぞ存分にご覧になって下さいませ。今年の椿も美しく咲き誇ることでしょう」
彼女の体調は少しずつだが良くなっている。調子を崩さなければ、きっと春を越せるだろう。
そう思うのに、千寿の心中の暗雲はどうしても晴れないままだった。
黙り込む彼女に不審を覚えたのだろう、想子が心配げな瞳で千寿を見上げていた。柔らかな微笑みでごまかして、彼女は主の髪をくしけずる。

そう、本当に、このまま、何事もなく、春が来ればいいのに――



眠っていたはずの想子は、すうっと瞳を上げてあたりを見回した。
見渡す限り何処までも続く、静かな闇がそこにあった。空と海の境界はなく、空間全てにひたひたと黒色が満ちている。
けれど、突然夜中にひとり目覚めたときに覚えるような恐怖はそこにはなかった。それよりも、ここ数日突然体調を崩して床に伏している自分が、平然とこの場に立っていることの方がよほど不思議に感じられた。
そうしてしばらく考え込み、ああ、と想子は頷いた。
「これは夢なのね」
夢を夢と意識してみる初めての体験に、彼女は口元を綻ばせた。目覚めたときまで覚えていられると良い。そうして目覚めたときに、こんな不思議な夢を見たと千寿に話してあげよう。
「……そうだわ、千寿、呼ばないと」
いつぞやの約束を思い出し、想子は闇に向かって千寿、と軽く呼びかけた。本当に来ると信じているのか、戯言と割り切って遊んでいるのか判別し難いその声は、何処にも響かず、闇に吸い込まれるように消えていった。
あとには、しん、と耳が痛くなるような静寂だけが残った。
「……それにしても、暗いわ」
その、居心地が悪くなるような無音をごまかすように彼女は呟いた。手元すら覚束ない暗闇では何も楽しいことがない。
千寿の話では、ひとは空を飛んだり海を歩いて渡ったりと、夢の中では現実にはできないようなことができるらしいのに、これでは全く夢の意味がない、と想子は肩を落として闇に眼を凝らしていた。

そうして不意に、ぽう、と眼前の闇に暖かな赤色の明かりが灯った。
「想子さま!」
赤い椿の提灯を片手に、何故だか必死の形相でこちらへ駆けてくる千寿の姿を捉えたところで、想子の意識は途切れた。



「――想子さま、しっかりなさって下さいませ!」
「……せんじゅ?」
名を呼ぶ声とともに、喉を痛めかねないと千寿が慌てるほどひどい咳の発作が想子を襲う。
横向きになった彼女の背をさすりながら、薬の調合で席を外した医者が早く戻ってこないかと千寿は焦る。

「ね。せん、じゅ」
熱のこもった吐息に混じる自分の名に敏感に反応し、彼女は意識してゆっくりと微笑みを形作った。自分が慌てた様子を見せてしまえば、聡い想子は己の容態を容易く悟るに違いない。
「何でしょう、想子さま」
「わたし、つばきがね、見たいの」
発作が治まったのだろう、大分落ち着いた呼吸で想子が呟いた。
「まだ、ほんの少ししか咲いておりませんよ。見頃にはまだ遠いものですよ」
「それでも、いいの。――どうせもう、もたないわ」
諦めの滲む声に、懸命にこらえていた感情の箍が一瞬外れた。

「そんなことを仰らないで下さい! いくら想子さまでもわたくし許しませんよ!」

おそらく生まれて初めて聞いたのだろう、研いだばかりの刀のような鋭さを持つ悲痛な叫び声に、少女はぽかんと目を丸くして千寿を見上げた。
刹那の勢いを失って崩折れた彼女を宥めるように、想子は柔らかく穏やかに微笑んで、その頬にそっと手を伸ばした。
縋るように彼女の腕を抱きしめた千寿は、夜の泉のような瞳を涙で滲ませて、終わりを迎えようとする小さな主をじっと見つめた。
「今までありがとう、千寿」
「想子さまはこれからお元気になられるのです。そんな、今生の別れのようなお言葉など千寿は要りません」
駄々っ子のように首を振る彼女を困ったような顔で見上げて、想子は淡い笑みをこぼした。
「何だか、いつもと逆みたい……」
普段は私が我侭を言って、それを千寿が宥めるのに。
ついに堰を切って溢れ出した涙と嗚咽を抑えるので精一杯の千寿の指に、自身の薄い指を絡め、想子はもう一度彼女に呼びかけた。
「ねえ、千寿。……最期だから、椿が見たいの。見せてくれるでしょう……?」
お願いよ、と重ねて乞えば、千寿は珍しく乱暴な仕草で目元を拭って、引きつったような苦笑でもって頷きを返した。


さく、と雪を踏む音がひどく重い。
背負った想子の体の軽さに、千寿は泣き喚きたくなる衝動を必死に押し殺していた。
「想子さま」
「大丈夫。……起きてる」
答える声は喘ぐような囁きだったが、いらえがあるだけでも重畳だと思い直し、浅く積もった雪から覗く飛石を一歩一歩、ゆっくりと踏んでいく。
道は短く、間もなくふたりは赤い椿を咲かせる樹の前に辿り着いた。
艶やかな深緑の葉はどこか生気に欠けたように少し褪せていたが、はちきれんばかりのつぼみが幾つかついて、気の早いものはもうその鮮やかな花弁を開いて彼女たちを迎えていた。
「想子さま。――椿が咲いておりますよ」
おろして、と呟く彼女の望むまま、肩にかけていた毛布で彼女をくるむと、そっと地面に下ろした。
白く息を吐きながら、想子はひどく嬉しげに微笑んだ。
これほど屈託のない、他人への気遣いからではない、ただ楽しげな笑みを見たのはいつ以来だろうと、彼女はその体が冷えないようにと寄り添いながら主の髪を撫でた。
「きれいね。とても、きれいだわ」
ためらいがちに伸ばされた想子の腕が葉や花弁をそっと撫でて、千寿はこそばゆそうに微笑んだ。
「ええ。美しくないはずがありませんわ――この椿はいつだって、想子さまのためだけに咲いているのですもの」
優美な輪郭を描く彼女の手がその一輪をあっさりともぎとって想子の掌の中に落とした。
「ありがとう。……ごめんね、痛かったでしょう」
鮮やかながらどこか柔らかい印象の朱色の椿を、両の手でそっと包み込み、想子はいたずらを仕掛けたこどものように視線を流して小さく笑む。千寿は眼差しを緩ませると静かに首を振り、肉厚の椿の葉を静かに撫でた。
「いいのです。お望みなら花などいくらでも捧げましょう」
その代わり、と千寿は想子を振り返った。その手に握られているのは、綻び始めた椿の花をつけた細い枝だ。
彼女がそれを庭の奥の闇に向けると、花の芯が、まるで中に蛍でもいるかのようにほんのりと暖かな色に灯る。
驚く想子の冷たくなり始めた指に己の白い指を絡め、彼女は嫣然と微笑む。

「冥府の先までも、お供させて下さいませね」




庭に倒れ伏した少女を見つけたのは、薬の調合を終えて駆けつけた医師だった。
もぬけの殻となった部屋から続く、娘のものにしては幾分大きい女の足跡を辿った先、枯れかけた一本の椿の前に想子はいた。
彼が部屋を離れる前に見せていた苦しそうな顔が嘘のように凪いだ表情で、色を失くした唇は柔らかな笑みさえ描いている。
一瞬息を詰め、医師は呆然と彼女を見つめていた。
すぐに我に返り、脈を取ろうと腕に触れた彼はその冷たさに青褪める。次いで止まった鼓動を確認すると、慌てて母屋に引き返した。
庭に残った雪を勢い良く蹴散らしていく彼の足音を追うように、椿の葉が枝から落ちてひらりと宙を舞う。

――その、投げ出された冷たい指の先で、明かりを灯したような赤色をした、綻び始めたばかりの椿の花がひとつ、その首を落としていた。