「消えた森」

恐い森があったのです。

早朝、正体の知れぬ鳥の羽ばたきが聞こえるような、
真昼、一度入ったら還れないと思うほど深く感じられる黒々とした緑の、
夕方、さわさわと人を誘い喰らい尽くしてしまうような、
夜中、唯其処だけ黒い塊、闇の凝って作られた永遠に続く迷路のような、
そんな気味の悪い森があったのです。

けれどある日、その森は突然消えました。
其処にあった森はまるで私の見た幻とでも言うように。

丘の上に住んでいる私たちは、
その深い森に遮られて見ることのできなかった麓の街並みと、
淡い水彩で描かれたような遠くにそびえる雪の積もった森を持つ山々と、
透明で脆く崩れそうな蒼い空とそこに漂う雪色の雲を、
見ることができるようになりました。

急に世界が広くなったような、そんな錯覚に捉われました。

そうして今、硝子のような青色の空を見上げて、
私は無性にあの森に逢いたくなりました。

ただただ昔は酷く恐かった、あの森が懐かしいのです。

思えばあの鳥の羽ばたきは、あの森の生命の証であったのかも知れません。
けれど、森の消え去った土地は私の思ったほど広くはありませんでした。
私が深いと感じたのは、数多の生命と死が其処に在ったからかも知れません。
彼らを包み込む、優しく不思議な森であったのでしょう。

そう、冷たい雨の日に。
この躰を容赦ない雨粒から覆ってくれる優しい森に、
そのときただ無情に見守っているだけの空を飛ぶ鳥たちは帰るのでした。

きっと、人を惑わせ呼ぶあの森は、
凛と全てを拒絶する、気高い空に呑み込まれてしまったのです。
厳しく遠く、決して振り向かない美しい空に焦がれる人間たちが、
時に不気味で、時に何よりも優しい深い森を狩ってしまったのでしょう。

夏、あんなに青かった草も今は枯れ果て、
切り株がそこかしこに見える生命の気配の絶えた無残な森の跡地で、
私は死の気配の色濃い冬の硝子の空を見上げています。