眠りから覚めて起き上がってみると、枕元にうさぎがいた。 「……?」 エルガーはあいにく、ベッドにぬいぐるみを置いて寝る習慣は持ち合わせていない。あまりの不思議に彼はそれを手に取ってしげしげと眺めた。 擦り切れそうな薄いピンク色の布で作られている、大人の二の腕ほどの背丈をしたうさぎのぬいぐるみだ。奇妙なことに、木製の珠が連なった首飾りをかけている。丁度正面にはこれまた木で頭蓋骨を象ったアクセントがつけられていた。不吉な雰囲気を漂わせる飾りだが、何故かつぶらな黒い瞳をしたうさぎのぬいぐるみとの違和感はなかった。 「…まあいっか」 帰ってきてから考えようと軋むテーブルの上にそれをちょこんと乗せて、エルガーは急いで支度にかかった。近所の少年からのお下がりである黒い服を纏い、蜜のような金髪を適当に手櫛で整えて部屋を後にする。 音を立てないよう静かにドアを閉めるときに、すぐ隣の部屋に続くそれが視界に入った。 もう開ける者のない部屋の扉は幾分寂しそうにエルガーには感じられた。しばらくそのままぼんやりと見つめていたが、苛立った父母に呼ばれて彼は姉の部屋のドアから視線を引きはがした。 ―――これから、その姉の葬式が始まるのだ。 父に背を押され、おずおずと死人の眠る棺桶に近付いていく。 生前好きだった白のマーガレットに包まれて目を閉じている姉は、彼の目から見ても眠っているようにしか見えない。 (皆、悪戯をしてるんだ。ぼくが泣きはじめたら、きっとお姉ちゃんが起き上がってきて冗談よ、っていつもみたいに微笑うんだ) 人に笑われることは大嫌いだが、姉の死が嘘になるならそれでも構わないと思った。 けれど、彼女の血の通わない白い顔も冷たい手も、今はもう褪せてしまった金髪も、全て本物にしか見えない。 (でも昨日まで笑ってたのに?) そっと祭壇に置かれた花を取り静かに棺の中に置く。 本当はそんなことなどしたくなかったが、躊躇っていると後で父親に何を言われるか分からない。 泣いたほうがもっと良いのだろうが、哀しいくせに心はどこか虚ろで涙など出はしない。 踵を返して自分の席に戻ろうとすると教会のオルガンの向こうにひっそりと佇む、背の高い人物が視界に入った。 黒い髪に黒い眼。黒の喪服であるのはこの場では当然のことだが、その容貌は色素の薄い人間が多いこの村では酷く目を惹く。 エルガーと目が合うと、その人間は優しくにっこりと笑んだ。 その瞬間、ぞくりと背筋に悪寒が走る。 触れてはいけない領域の人間だ、と彼は直観的に感じた。 「…エルガー、どうした?」 異変に気付いた父親が、かがんできて声をかける。一見優しそうに聞こえるが、この状況を厭っているのがよく分かる冷たい声だ。 「気持ち、わるい」 喉から声を絞り出してそう訴えると父親は青ざめているエルガーの言葉を信じたらしく、「休んでいろ」と彼を教会から追い出した。 ひとの姿が見えなくなった途端、彼は全力で走り出した。 ――あの男のいるところにいちゃいけない。 自分の部屋に戻ると、服を着替えることもせずにどさりとベッドに倒れこんだ。 眠ることで今日のことをすべて忘れようとしたのだ。 微かに震えて毛布を被るエルガーを、感情のない硝子の眼がじっと見ていた。 エルガーが再び目覚めたのは、とっぷりと日が暮れて月が昇りきってからのことだった。 のそりと上半身を起こした彼は、テーブルの上に置いたうさぎのぬいぐるみを抱えてベッドを降りた。 ひとりで向こうの部屋に行くのはどうにも嫌なのだ。 開閉の度にぎいぎいと不快な音を立てるドアを気付かれないようこっそりと開けて、両親の部屋の様子を覗き見る。もう夕食の時間はとっくに過ぎているはずだ。彼がほんの少しでも時間や彼らの言うことを守らないと両親は怒り、殴ったり叩いたりしてくる。 しかし彼が見たのはあの黒一色の青年と自分の両親が口論をしているという何とも奇妙な光景だった。 「どこも変わったところなどなかったじゃないか!」 「えぇ。そのように配慮しましたから」 初めて聴くその声は、初めの印象から遠くかけ離れたものだった。 ひとを落ち着かせる低いそれにエルガーは何故かほっとした。 「あなた、絶対に詐欺だわ! こんなひとに代金など払う必要なんてないわ。訴えてやる!」 ヒステリックな甲高い叫び声は母親のもののようだ。 「それでも結構ですよ。代金は必ず頂いていきますので」 「何よ! お嬢さんには特別な葬式が必要ですとか言い寄ってきたのはあなたじゃない。大事な大事な一人娘を喪った親にたかろうなんて何て詐欺師! その上代金は必ず頂くですって? もらえるものならもらってみなさいよ、そんなことは絶対にさせませんからね!」 「あまり煩くなさると息子さんが起きて来てしまいますよ? ほら」 気付かれていたのか、と目を見開いた瞬間、寄りかかっていたドアがぎぃぃ、と軋む。 不意のことにバランスを崩してよろめいた彼が、床に手をついて上を向くと、悪魔のような恐ろしい形相をした母親が自分を睨みつけていた。 「邪魔だからどこかに行ってなさい 」 母親がいつになく激しい声で吠えたてる。 その迫力は子供が受け止めるには恐ろしすぎて、エルガーは反射的に後退って逃げた。 「ご、ごめんなさい」 そのままなるべく彼女に近づかないように壁伝いに移動して、外へと続くドアを開けた。 ぱたぱたと走り去っていく子供の軽い足音を聞いて、青年が不快そうに顔をしかめた。肩を竦めて嘆息する。 「それではまた来ましょう。――しかし、早く追い駆けないと森に入って迷ってしまうかもしれませんよ? 或いは妖精が連れ去ってしまうかもしれませんね」 「別に平気よ。あの子はいつも遊び呆けてるからここらへんのことならよく知ってるし。追い駆けるまでもないことじゃない。それよりあなた、さっさと出てってよ」 「…本当に、宜しいのですか? 連れ戻されなくて」 「うるさいわね、関係なんてないくせに他人の家庭の事情に首を突っ込まないで頂戴!」 彼は哀れみのこもった眼でエルガーの母親を見つめ、ふいと首をめぐらせて外を見遣った。 その先には、エルガーの向かった妖精が棲むと噂の森が広がっている。 「………っ。ひ、っく」 その森の奥深く、大人でさえ立ち入らないような場所にエルガーはやって来てしまっていた。 衝動的に走り出し、何も考えずただひたすらに森の奥へと入ってきてしまったが、そのせいで帰り道が分からなくなってしまったのだ。 空腹と不安が、葬式のときには出なかった涙を流させる。 エルガーは泣き声を押し殺してとりあえず歩き続けた。立ち止まってしまったら、もう歩けなくなってしまうような気がしたからだ。 それに、真っ直ぐに歩き続けていればいつかは森の終わりが見えて来るかも知れない。以前迷ったときはそうして運良く村に帰りつくことができたのだ。今度だってできないことはないだろう。 ふと持っていたことに気付いて、胸に抱いたうさぎを見下ろす。顔を仰向かせると、艶々と光る瞳がじっと彼を見つめ返してきた。 無機質なその眼に、大丈夫だと励まされたような気がして、エルガーは少しだけ微笑んだ。うさぎの瞳も、笑っているかのようにきらと光る。 うさぎの重みだけが励ましの中、物音や足音に注意して森を突き進んでいく。 そしてふと、樹々の奥に見える池の水面が目に止まった。そこで何かが、ぼんやりと薄く光っているような気がしたのだ。 「あれ、何だろうね…?」 腕の中のぬいぐるみに声をかける。返答がないのは分かりきっていたが、訊ねずにはいられなかった。 音を立てないように注意して近づいていくと、幾つもの小さな月のような光が、水面の上でくるくると踊っていることが分かった。 その中のひとつ、薄い桃色の光の中に何かが見えた気がしてじっと眼を凝らす。 「妖精……?」 そういう話の好きな姉からよくその話をされた。その話の中に、この森に妖精が出るということもあったような気がする。しかし、エルガーは可愛らしい妖精よりもトロールなどの怪物の方に興味があったので、その話の内容はあまり覚えていなかった。 じっとその光を目で追いかけていると、次第にぼんやりとしていた影がはっきりとしてきた。 「――…え」 思わずエルガーは瞠目してその踊る人影に見入った。 豊かな金髪が動きに合わせてゆったりとなびく。 他の光の中にも見えた人影たちと楽しそうに笑いあっているその顔は、――今日埋葬されたばかりの姉に酷似していた。 お姉ちゃん、と思わず叫ぼうとした。 しかし声を上げる前に、後ろからすっと伸びてきた手に口を塞がれてしまった。 「呼んではいけない。妖精になった人間を呼ぶことは、その人間をひとでも妖精でもないものに変えてしまうからね」 決して荒立つことのない落ち着きのある声は、あの黒ずくめの青年のものだった。 その黒い眼はひたとエルガーを見つめている。 「分かったから、離してもらえる?」 くぐもった声でそう伝えると、あっさり彼は手を離した。 泉に背を向け、エルガーは彼を見上げる。 不思議と教会で感じたように恐ろしくは感じられなかった。 「物分かりの良い子だね」 「そう? ねぇお兄さん、あの妖精は本当にぼくの…?」 「そのとおり。君のお姉さんは妖精になりたがっていた。――あまりにその気持ちが強くて、結局妖精になってしまったんだ」 「じゃあ、お姉ちゃんは死んでなかったの?」 いいや、と彼は緩くかぶりを振った。かすかに眉間に皺がよっているように見える。 きょとんとしてエルガーが見つめ返した。 「君のお姉さんは確かに死んでしまったよ。けれどあまりに心残りが強かったからわたしが呼ばれた」 「お兄さんが?」 そうだ、と彼は頷く。 「わたしはひとの心残りを片付けるのが仕事だからね」 「え、葬儀屋さんじゃないの?」 エルガーが声を上げると、長い睫を瞬かせて不意を突かれたように彼は沈黙した。 短い間のあと、青年はゆっくりと微笑みを形作る。エルガーもつられて笑った。 「普通、わたしのようなものをそうとは呼ばないのだけれどね。でも、うん。その呼び名は良いね。気に入ったよ」 姉の葬式を執り行っていたようだから、そうかと思ったのだがどうやら違うらしい。よく飲み込めなくて首をかしげていると、先ほどは口を塞いだ大きな手が、今度は頭を撫でる。嬉しくて彼は頬を赤らめて俯いた。この手は暖かくて優しくて気持ちが良い。自然と笑みが顔に浮かぶ。 しかしふと、あることに気付いた。 「あの、お兄さん。……家への帰り道って、知ってる?」 ――本当はあの家に戻りたくはない。父親はエルガーのことなど見向きもしない。決まりに背けば理由など関係なしに冷たいマメだらけの手で殴ってくる。母親は酒が入っていないときは他と変わらない普通の母親なのだが、いったん酒が入るととエルガーの欠点や失敗を上げては何度もなじる。そんな両親だから頭を撫でて褒めてくれた記憶などエルガーには一度もない。 けれど、それが今の彼に与えられた唯一の場所だった。 幼い彼にはその場所から逃れていく先も、状況の改善の手段も分からない。 しゅんとしたエルガーの様子にふむ、と唸って青年は彼の青い目を覗き込む。 「君の家への帰り道なら分かるけどね」 「……教えてくれないの?」 泣きそうになったエルガーの様子に、慌てて彼は首や手を振って否定する。 「もし君が良ければだけどね。わたしのところにおいで?」 一瞬青年の言ったことが理解できなくて、エルガーは何度か瞬きをした。―――誰のところへ、誰が行くと? 困ったエルガーは青年から目をそらしてうさぎのぬいぐるみを見つめた。小さな友は相変わらず沈黙していたが、行けば? と囁いたようにエルガーには思えた。 青年がそのうさぎのぬいぐるみに気付いてその頭をぽんぽんと軽く叩く。 「こら、そそのかすんじゃない。自分で選ばせなくちゃ駄目だろう」 吃驚してエルガーは顔を上げた。 「お兄さん、うさぎの声が聞こえるの?」 「勿論。これはわたしのものだったのだからね。でもどうやら君のところの方が居心地が良いようだ」 困ったものだね、と溜息をついてみせる。彼の先ほどの行動や、打ち解けた様子とこのうさぎの持ち主だというそれらの事実に、エルガーは若干のためらいを覚えながらも決めた。 (行ってみよう) 姉は妖精になって自分だけの場所を確保した。本当は自分の力でそういうものは手に入れなくてはならないのだろうが、居場所を与えてくれるというならばその手に縋ってみたい気分になった。 自分がいなくなった後の両親への心配はあるが、自分などいなくとも彼らは平気なのだろうと思うことにした。むしろいない方が手間が掛からなくて良いのかもしれない。 けれどどうもまだ信じきれなくて、ひとつだけ訊ねてみた。 「お兄さん、ぼくがいて邪魔じゃない?」 「いいや。むしろわたしはとても助かるよ。家が明るくなる」 手を差し伸べて彼は教会で浮かべたようなあの優しい微笑みをエルガーに向ける。しかしあの時の背筋の凍るような感じはもうなく、逆に安堵を覚えた。 彼のもう片方の手は光の関係か何かだろうか、闇の中に溶けているように見えた。 しかしそれには構わず、エルガーはその手を取って歩き出した。 暗い部屋の中、すうすうと子供の無邪気な寝息が聞こえる。 エルガーが眠るベッドの傍らの椅子に、青年はあのうさぎのぬいぐるみを膝の上に置いて座っていた。 その目は艶然として冷たく、エルガーに向けていた優しさや穏やかさは欠片もない。 「だから、必ず代金を頂くと言ったでしょう?」 愚かですね、と侮蔑を込めて唇を歪める。 「……さて。わたしは子供を育てた経験がないのですけど、大丈夫ですかねぇ?」 うさぎはぐるりと首を動かして、主人を見上げた。黒い瞳には微かに非難の色が伺える。 青年は苦笑して、うさぎをエルガーの枕元にそっと置いた。 「そんな目で見ないで下さいよ。大丈夫ですって。…この子はきっと良い〈葬儀屋〉になる。そう思って彼を連れてきたのですから」 音も無く立ち上がると、そのまま滑るように彼は部屋の外へ向かった。 ――ぱたん、と小さく音を立ててドアが閉められた。 終 |