凍り桜が満開の日 少女は暁闇の中、悲鳴を上げる身体を引きずって、懸命に逃げていた。 寝巻きのままの身体にまだ冬の残る風は厳しすぎる。裸足の足もすでに真っ赤になって痛みを訴えている。 それでも彼女は止まることなく歩き続ける。 体力があれば走ることもできただろうが、長いこと床に伏せっていたせいで満足に走ることもできない。 ―――殺される……! 東の山の向こうの空が白み始めた。 朝が来るまで逃げ切れば自分の勝ちなのだと、誰に教えられるでもなく少女は知っていた。 太陽が昇れば、もうあれは自分を追ってはこれない。 村はずれの桜の大木の下まで歩いたところで、彼女は雪に足を取られて転んだ。 雪に頭から突っ込んだ体勢になって、彼女は激しくむせた。 呼吸を整えようと仰向きになる。背中や脚から雪に体温が奪われてゆく。 自分の荒い息遣いの合間に、ざくりと重く雪を踏む音が聞こえた。 ―――死にたくない! 動けずにいる彼女の首に凍るように冷たく鋭い刃物が当てられる。 愕然として見開かれた瞳は、最期にその刃の軌跡を映して果てた。 さあ、とかすかに暖かさを感じさせる風が吹いた。 煽られて飛ばされそうになった黒い帽子を手で押さえて、灯馬は辺りを見回した。 所々に春の芽生え始めた、けれど未だ雪の残る村が少しばかり下ったところにある以外は、人工物の何もない山の中である。 「思ったよりも辿り着くのに時間がかかったかな」 まあいいかと思い直して、彼はゆったりと山道を下り始めた。 目的地はすぐそこである。 三鷺咲耶はうんざりしていた。 自分がどういう状態なのかはっきりと告げない村の医者にも、いつも何かに怯えているようにおどおどとしてる母親にも、最近よく見る気分のよくない夢にも何もかもうんざりしていた。 「何よ何よ何よ。あたしはこうやって普通に外だって歩けるのに!」 雪が全て融けるまでは外出を控えるようにと注意を受けていたが、彼女は新入りの下女を言いくるめて村の中を堂々と散策していた。 自分の身体の一体何処が悪いというのか。 やっぱりあの医者は似非なのではないかと疑い始めたとき、見慣れない人影を彼女は見つけた。 村では珍しい洋装の、黒ずくめの男である。手には茶色の革製の鞄を下げて、物珍しそうにきょろきょろとあたりを見回している。 「……誰?」 思い立ったら即実行、座右の銘は猪突猛進の咲耶は、彼に興味を覚えると同時にざかざかと遠慮なく近寄っていった。 「お兄さん、迷子?」 急に話し掛けられた青年の方は、吃驚したというように鳶色の目を見開いて咲耶の方を振り返った。 「迷子というと何かそのまんまなんでせめて一夜の宿を探してる旅人ってしてくれるとありがたいなあ俺としては」 「旅をしてるの?」 「えーと、ま、そんなところで」 怪しい。物ッ凄く怪しい。 不信感でたっぷりの視線を彼に放つと、青年は困ったように自分の髪を引っ張った。 その薄い茶色の髪も、黒髪の多いこの村ではかなり異質のものだ。 「外人さん?」 「まさか。俺は灯馬っていうんですよお嬢さん。れっきとした日本人です」 「ふーん」 「……信じてないなぁその目は」 腕組みをして思案するような表情を彼は作った。 「さて、どうしたらお嬢さんに信じてもらえるんですかね」 「そうね、あなたが今まで旅してきたところの話を聞かせてくれるなら信じてあげてもいいわ。退屈してるの、話してくれる?」 灯馬の目を覗き込むと、彼は苦笑しながらも了解の意を示した。 「でも道端じゃ寒いでしょう」 「あたしの家に案内するわ。どうせあたしの部屋は離れだし、いい加減戻らないとお祖母さまの雷が落ちるわ」 彼の話はとても面白かった。 数百年前に行われた戦の跡地で狐に化かされた話、田舎者が憧れる都の実態、様々なことを彼は話した。 「随分色んなところを渡り歩いてるみたいだけど、あなた一体何をしてる人なの?」 「本職は医者かな」 「嘘でしょ」 即座に否定してみせた咲耶に、彼は肩を落として溜息をつく。 「本当ですっての。お嬢さんが身体弱いことくらい、一目で見抜けるくらいには優秀なつもりなんですけどね」 咲耶の頬が強張った。和んでいた空気が一変してぴりぴりしたものに変わる。 「あなた、何者?」 灯馬は笑顔を崩さない。 「だから、旅が趣味の医者」 「あなたみたいな胡散臭い医者がどこにいるものですか」 「でも、お嬢さんが虚弱体質っていうのは当たりでしょう?」 「……身体が弱いのは認めるわ。体力がないらしくてすぐ風邪を引いたりするのよ。でも、かかりつけの医者はどこが悪いのかはっきり言わないし」 灯馬は鞄を開けた。 「ちゃんと診察してみないと分かりませんけどね、お嬢さんの場合はそんなどの器官が悪いとかじゃなくって疲れやすかったり病気にかかりやすいだけでしょう」 「……そうなの?」 彼は薬草の入った壜やら医療用らしい器具をいくつか取り出して調合を始めた。 「村のお医者さんに訊いてみたらどうです?」 すり鉢を取り出してその中に何種類かの薬草を入れると、彼はそれをごりごりすり始めた。 薬作りに熱中し始めた彼に放っておかれる形になった咲耶は、何か暇潰しの道具になるものはないかと視線を彷徨わせた。 ふと灯馬の鞄に目が止まる。 渋い緑や金属の光沢の中に、何か不釣合いな色彩があったように感じられた。 縁側に腰掛けた彼を迂回してそれに近づいて、咲耶は鞄の中を覗き込んだ。 無機質な品物の中に、何故かひとの二の腕ほどの桜色のうさぎのぬいぐるみが堂々と腰かけている。 どう見ても成人男性の持ち物にはふさわしくない。 「…………」 このひと、そーいう趣味なのかしら。 しばし停止した思考がそんな言葉を弾き出す。 さらにしばらく沈黙した後で、彼女はこの事実を記憶の闇に葬り去ることにした。人間は都合の悪いことは忘れるようにできている。 そのことに感謝して、結局彼女は灯馬を観察して時間を潰すことに決めた。 「お嬢さん?」 肩を軽く揺すられて、まどろんでいた意識が落ちるように現実に戻ってきた。 「……もしかして、寝てた?」 「ぐっすりと。もう日が暮れますよ」 起き上がると、黒いフロックコートが毛布代わりにかけられていた。 「迷惑かけちゃったかしら」 久々にぐっすりと眠れたように思う。 かすかに覚えている夢の光景は、いつものような重苦しい闇でなく、柔らかに散る桜の風景だった。 「別に。つい数分前にできたばかりですしね、薬」 はいどうぞ、と軽い調子で彼女に手渡す。 「ありがとう。……って、これ、効くの?」 「効かない薬は作らない主義です」 「ふうん。あ、お金払わなくっちゃいけないわね」 立ち上がった彼女を、灯馬は呼び止めた。 「お代はいいんで、一晩泊めてくれません?」 こいつ、最初からこれが目的だったわね。 呆れかえった咲耶は、それでも笑って母親にとりなしに向かった。 咲耶の説得の甲斐あってか、歓迎とまではいかなくても、無事灯馬は三鷺家に一泊できることになった。 あてがわれた客間でのんびりとしていると、きしッと床が鳴った。 「はい?」 声をかけられる前に襖を開ける。 やってきたのは老婆――咲耶の祖母、朱音であった。 物凄い形相でこちらを睨みつけている。 「お前さん、何のつもりでここに来た」 「道に迷って辿り着いただけですよ。今夜の宿が欲しかったので少々ずるい手を使わせていただきましたが」 「嘘はつかん方がいい。何の目的があってここに来た?」 灯馬はかすかに微笑んだ。 「……七十年前と、五年前の件について」 老婆の目がかっと見開かれる。 「何のつもりか!」 ぶるぶると怒りに震える彼女を温度のない目がじっと見つめる。 「彼女たちに無念を晴らしてくれと頼まれたので来たまでですよ」 朱音の震えが前触れ無く止まった。彼女は、くつくつ、と喉の底から笑い声を上げる。 「そんなことで来やったのかい。ご苦労さまなことだねえ」 せいぜい頑張っておくんな、と彼女は灯馬に呼びかけると、屋敷の奥へ引き返していった。 「……やれやれ。老人の相手も楽じゃあない」 肩を竦めた灯馬は、荷物を持って庭に下りると、そのまま闇の中へ消えていった。 夜の最も深まる頃。 しん、と静まりきった家の中に彼女は立ち尽くしていた。 ――今日も、この夢かしら。 最近、咲耶は殺される夢をよく見る。 何者かに追われ、村の中を逃げ惑い、けれど結局殺される夢だ。 最後、捕まって殺される段になると、彼女の意識は主役から観客のものへと映る。 だから殺される感覚を味わったことは無いが、あの追い詰められる感覚は、当たり前だがどうにも好きになれない。 逃げた道順も五感もはっきりと覚えているのだが、首を掻き切られるよ少女の顔だけは覚えていないのが不思議だった。 どんな顔をしていただろうか。 彼女はふと、自分が幼い頃に行方不明になった姉のことを思い浮かべた。 彼女は殆ど記憶していないが、春日という線の細い少女だったらしい。自分ほどではないが病弱だったとも聞く。 家の中にいるのが好きで、外に出ることのあまりなかった彼女は、咲耶と同じ十三の冬に突然姿を消した。 村人は総出で捜索をしたらしいが、不審な人物も彼女も見たものは誰もいないらしい。 その日唯一村に起こった異変といえば、その日の朝は凍り桜が満開に咲いていたということ。咲耶は、その凍り桜という桜が花を咲かせたところを見たことがない。 凍り桜は、この村の東の入口に古くからある桜の大木だ。ただ、奇妙なことに春に花を咲かせたことがないという。花が咲かず、冬のまま凍りついていることから、凍り桜と呼ばれているなのだと親しい下女から教えてもらったことがある。 そして、凍り桜が満開に咲いた年は、豊作になるという。 事実、姉が失踪し、凍り桜が花開いた五年前は例年にない豊作に恵まれたと聞く。 不気味な符号だと咲耶は思ったが、その話をしてくれた女性は、村の者が神隠しにあう度に桜が咲いているわけでも豊作になったわけでもないと笑ってとりあわなかった。 そういえば、と咲耶はある事実に気付いた。 ――少女が殺されるのはいつもその凍り桜の木の下だ。 「……偶然、でしょ?」 かすかに右手が震えている。 左手で右腕を押さえながら、今日逃げるときには凍り桜のある方とは反対に逃げようと彼女は決意した。 ―――かたり。 来た。 敏感に気配を感じ取った咲耶は一目散に走り出した。 繰り返しなぞる夢ならば、どう逃げたところで行き着く先は同じ。 目の前の光景に、咲耶は呆然として立ち尽くしていた。 「そんな……」 彼女が支えを求めて伸ばした腕の先には、あの凍り桜と異名を取る老木。 自分は確かに西に逃げたはずだ。事実、走り抜けた光景もいつもとはまったく違う。 なのに、今自分は凍り桜に寄りかかっている。 一体、これはどういうことだろう。どこで道を間違ったのだろう。 「今日は何の日か忘れたのかい?」 突然、しわがれた声が冷たい夜明けの空気に響く。 聞き覚えのあるそれに、咲耶はびくりと身を縮こまらせた。 振り返ったか振り返らないかの内に、咲耶は黒い塊によって雪の中に押し倒された。 「お祖母ちゃん……」 鋭く光る刃を構えて咲耶の上にのしかかっているのは、まぎれもなく彼女の祖母。 「桜のために死んでおくれ」 押し付けられた刃が酷く冷たい。 息を殺して目を瞑り、咲耶はそれが自分の喉を掻き切る瞬間を覚悟した。 「そんなことをしても無駄ですよ」 緊迫した空気の中に、のんびりとした声が広がる。 忌々しそうに舌打ちした老婆が半身を起こして振り返ると、そこには黒ずくめの男がにっこり笑って佇んでいた。 「はいおはようございます」 恐ろしく間の抜けた挨拶に、咲耶の緊張がすこんと抜ける。 「いくら血を捧げたところで、桜は既に死んでいますから無意味ですよ」 「嘘を言うんじゃない!」 「嘘なものですか。その証拠に五年前は咲かなかったでしょう?」 老婆の目からぎらぎらとした輝きが失われた。 「……だって、この桜は血を与えれば蘇るんだよ。そう言われてるんだよ。ご先祖さまが嘘なんてつくものか」 灯馬は憐れみを込めた目で枯れた桜を見上げる。 「七十年前までは確かにそうだったでしょう。でも、もうこの桜が咲くことはない」 「え。五年前にも桜は咲いたでしょう?」 きょとんとして咲耶が問い掛ける。 ああ、と灯馬は声を上げると、彼女の疑問を解きにかかる。 「それはこういうことですよ」 白み始めた空が一気に光を取り戻す。 明るさを取り戻した世界の中で、桜の枝にはびっしりと、白い氷の花が咲いていた。 「……」 「樹氷、というやつなのかな。桜でこんなことが起こるっていう話は聞いたことがないけれど、まあ現実にあるんだからしょうがない。村のひとはこの珍しい現象のことも『満開』と称していたんでしょうね。豊作という話は全くの偶然だと思いますが。ま、そういうことで、この桜には氷の花が咲くんですよ、お嬢さん」 老婆は呆けたようにその桜を見つめている。 やがて、誰に聞かせるでもなく、囁くような声量で話し始めた。 確かに凍り桜は滅多に花を咲かせない桜だったという。 桜に生き血を捧げれば花が咲くなどという不気味で荒唐無稽な言い伝えは確かに伝わってはいたものの、あまりにも馬鹿らしいので村の間で取り沙汰されることはなく、桜はそこらの木々と同じような扱いを受けていた。 そして、七十年前の春の近い冬の日、朱音は妹とこの木の下で喧嘩をした。理由は他愛も無いことだったと思う。年頃の少女にはよくある幼稚な恋愛感情が引き金だったか。 しかし、たまたま朱音が農作業用の鍬を持っていたのが災いして、彼女は妹をそれで殺してしまった。 正気に返って、見つかることを恐れた朱音は、妹を桜の生えているすぐ近くの崖から突き落とした。 数日後に見つかった彼女は、冬眠から目覚めたばかりの熊あたりにでも食い散らされたのか、それは無残なありさまだった。 彼女の死は事故で片付けられた。 「その年にはそれはもう見事な桜が咲いたもんだよ。まるであれを悼むかのようにね。……でも、それきりこの桜は死んじまった」 それを自分のせいだと感じた朱音は、何とかこの桜をもう一度咲かせようと努力してきたという。しかし、どんな方法を試しても花が咲くことはなかった。 弱り果てた彼女は、根も葉もない言い伝えにまで縋って桜を蘇らせようとした。 けれど、孫の春日を犠牲にしても、死んだ桜は蘇らなかった。 村人たちは樹氷を見て満開だと騒いだが、朱音が求めていたのは、氷の花ではなく生きた花だった。 「結局無意味だったんだねえ、あたしの努力は」 老婆は寂しそうに呟くと、ふらふらと崖の方に歩み寄っていった。 「お祖母ちゃん!」 急いで咲耶が制止に走ろうとする。が、その前に灯馬が彼女の進路を腕で阻んだ。 「ちょっと!」 「……彼女たちの望みを叶えることが、俺の最優先事項ですからね」 咲耶は眉をしかめた。こうしている間にも、彼女の祖母は着実に死へ向かっているというのに! 「お祖母ちゃん、待って!」 「自分を殺そうとした相手が自殺するのを止めるんですか?」 「何寝ぼけたこと言ってんのよ! 家族が自殺しようとするのを止めるのは当たり前でしょう!」 そうですかね、と彼は暗い眼をして崖の方を見た。つられて咲耶も視線を動かす。 ゆらり、と白く透けた着物の裾を目がとらえた。 崖の向こうでよく似た少女がふたり、笑って朱音に向かって手を差し伸べている。 激しい悪寒が咲耶の全身を襲った。声が喉で凍る。 ついに祖母が宙に足を踏み出す。 彼女の姿が掻き消え、数瞬の後、ぐしゃりともべちゃともつかない嫌な音が崖下から聞こえてきた。 くすくす、とその場にあるはずのない少女たちの笑い声を聞いたのを最後に、咲耶の意識は途切れた。 意識を失った咲耶を抱えて三鷺の屋敷に戻ると、半狂乱の母親が灯馬の腕から彼女を奪い取り、何があったと喚き散らした。 適当に話をでっちあげて彼女を落ち着かせると、灯馬はすぐにその村を後にした。後味の悪い事件があったところにいつまでも長居する気分ではない。 今朝方事件のあった桜の前を出ると、身体の透けた少女が三人、その前で鞠をついて遊んでいた。 彼に気付くと、そのうち年下らしい少女ふたりがにこやかな笑みを返す。灯馬も軽く帽子を下げて会釈した。 桜の柄の着物を着た、年嵩の娘は顔を強張らせたまま彼を睨みつけている。 ふたりはそんな彼女の手を取って、引きずるようにして崖の向こうに消えていった。 少しばかり南にいけば、もうそろそろ桜が咲き始める頃だろう。 見物でもしてから帰るか、と灯馬は呑気なことを思いつつ山道を下っていった。 |