六花の海に沈む
私は、海というものを知らない。 一度も見たことがないばかりか、つい数日前まで、そのような存在があるということすら知らなかった。 彼の話に拠れば、それは青く、何処までも続いているかのように見えるものなのだという。船というものに乗って幾日もその、大きな大きな水溜りのような海を進んでいけば、また別の土地に辿り着くのだと。 この水溜り、という概念も私にはよく分からなかったが、そう言うと彼は水を椀に注いで、これがもっともっと広がったようなものが海なのだと説明してくれた。 彼はそんな世界で生きていた。 漁師という職業に就いていたのだという。 海というものはとても深く、そこには数え切れないほど多くの種類と量の魚というものがいるらしい。食用に出来るそれを網を仕掛けて捕まえ、それを山の方から来る商人たちとまた別の品物に交換して生きているのだと、そう語った。 それはとても遠い世界のように、思えた。 そして事実、遠かった。 どうしようもないほど、かけ離れて存在していた。 私の世界は、青ではなく白に彩られている。 見渡す限りの雪原と峰と、ぽつぽつと点在する雪に塗れた黒い林。連なる山々の中でも特に人里から離れた、深い森の奥に私の家はある。 夏であれば最寄の村まで山を下りて必要な品物を買いに行くことは容易いが、冬は雪が深すぎて遠出はとてもではないが出来そうにない。 そんな冬の真っ只中、私が彼を見つけた――否、拾ったのはいつもの猟の途中だった。 冬は食料に乏しい。 秋の内に買い込んだものを保存が効くよう手を加え、それで何とか春まで凌ぐのが常だ。 けれども、今年は獲物があまり取れなかった。 今ある分を出来るだけ節約しても、春まで保つかどうか自信はなかった。 だから仕方なく、猟銃を構えて山に出た。 正直あまり期待はしていない。 冬に活発に活動する動物はそれほどいないし、それ以上に彼らに出会える可能性は低かった。その上それを仕留められるかどうかはまた別の問題である。 だから、徒労に終わることを覚悟して出た猟で思いがけず獲物を手に出来たことは、これ以上ない幸運だった。 兎を数羽、手にすることの出来た私は意気揚々と帰宅する途中で、普段は決して見かけないものを見つけて目を丸くした。 行き倒れた人間である。 幸い息はまだあったから、急いで私の家まで運んだ。 家まで近かったのは良かったと思う。そうでなければ私は彼を運ぶのを諦めただろう。自慢できるような腕力は持っていない。 女ひとりで成人した男性を、しかも雪道を歩いて運ぶことには予想以上の労苦を必要とした。雪に沈みかけるかんじきに舌打ちをしつつ、男を土間に放り込むと、ちょっと休むつもりで腰を下ろしたら動けなくなった。 せっかくなので、しばらくぶりに出会った人間をじっくりと観察してみた。 小さな囲炉裏の炎に照らされる男の肌は、見慣れない浅黒い色をしていた。猟師たちの中には雪焼けをする者も多いが、それとはまた肌の焼け方が違う気がする。 年齢は恐らく二十を幾つかすぎたほどだろうと思われたが、美醜の程度は私には判断がつかなかった。比較できるほど人間の顔を知らないからである。 ただ醜いとは感じなかったし、髭もきちんと剃られていた。身長は見知った村の人間の誰よりも高く、体つきはしっかりしていて筋肉もちゃんとついている。 彼は何処から来たのだろう、と私は思った。 村の人間でないことは明らかである。肌の色が云々と言う前に、そもそも顔に見覚えはない。山に住んでいる人間でもないことは、この最も雪の深くなる時期に山を歩いていたことから容易に知れた。 この山を少しでも知っている人間であれば、真冬に山を越えようとする愚かなことはしないだろう。この山脈の向こうに行こうと急ぐなら、距離はあってもぐるりと道を回った方が安全で、そして早く着けるはずだ。 それにしても、麓の人間たちは彼を止めなかったのだろうか。それともしつこく忠告しても、彼がそれを大げさだと感じて受け入れなかったのだろうか。 だとすれば相当の愚か者だ。 たまたま自分が通りかかったから良かったようなものの、そうでなければ確実に死んでいただろう。 そこまで思い当たって、私は食料の心配を思い出した。 私ひとりであれば春まで越すことは容易であろうが、この男の分もとなると心許ない。 溜息をひとつ付いて家の外の様子を伺うと、更に悪いことに吹雪いてきたようだった。 この男が無事に下山できるほど寒さが和らぐまではゆうに一月以上ある。 私は仕方なく、時期を待ってもう一度猟に出る覚悟を固めた。 男が目を覚ましたのは、それから半日ほど経ってからだった。 まだ起き上がることは出来ないのか、首だけを動かして辺りを見回している。 「……あんたは?」 そうして私の姿を見つけるなり、訝しげな目つきでこちらを睨んできた。黒い瞳にこういう形容もおかしいかも知れないが、屈託のない明るい色の目をしている。 その目に湛えられている明らかな警戒の色に、私は怒りを通り越して呆れた。 そのとき丁度男の腹の虫が鳴り、彼は狼狽して顔を赤くした。その慌てるさまがやけに可笑しくて、私は思わず笑い声を零してしまい、彼はそれに反応してますます照れて顔を赤くするものだから、笑いが止まろうはずはない。 ようやく笑いを収めて男を見ると、憤慨したらしく眉間に幾つも皺を立てて私を睨みつけていた。 「いらない?」 このままではまともな会話も交わせないだろうと、機嫌を取るつもりで差し出した兎汁を彼はじっと見つめた後、ゆっくりと上半身を起こしておずおずと受け取った。何だか、怪我をした野生の動物を懐かせようとしている気分になる。 実際、彼は酷く神経を尖らせていた。 まあ当たり前だろうとは思うが、命を助けられておいてその態度ではいささかこちらも気分を害する。 結局その日はそれ以上会話を交わすこともなく、きちんとした話が出来るようになったのは次の日の朝だった。 「なあ、あんた……俺を助けてくれたのか?」 朝食を差し出すと、受け取りながら彼はそう声をかけてきた。 「気付くのが遅いね」 彼はぐっと言葉に詰まったらしい。 それからどういう態度を取るだろうと観察していると、彼は椀を横に置いて布団の上に正座をすると、頭を深く下げてきた。 さすがにこれには驚いて、顔を上げるように言った。 「すまなかった」 「謝ることじゃない。目を開けて全く見知らぬ場所とひとに出会えば警戒するのは不思議なことじゃない。むしろまったく用心しない方がおかしいと私は思うよ」 「……そうか」 私の答えに納得したのか、彼は頷くと椀を体の前に持ってきて、「いただきます」と両掌を合わせて礼をする。 その声に、ふたり以上で食べる食事が久しくなかったことを突然思い出して、私は何となくくすぐったい気分になった。 彼は朝食を綺麗に平らげると、「旨かった」と満足そうに笑った。 「からだはもう動けるようになった?」 「ああ。寒いのには慣れてなかったもので、本当に申し訳ない」 「そのことなんだけど。何でこの時期に山越えをしようなんていう無謀なことをしたの」 咎めるような口調になってしまったことを少し悔いたが、彼は困ったように頭を掻いて笑った。 「どうしても、この先に急ぐことがあってな。麓の村のひとたちには止められたんだが……」 「あなたはその忠告に従っておくべきだったね。今の時期、どれだけ山越えに慣れた人間でも山には入らない」 「ふうん。それほどのものなのか」 彼のあまりの呑気さに、私は苛立ちを隠せずに刺々しく溜息をついた。 「これだから、山で暮らしたことのない人間は……」 「悪い。だが、何であんたはこんなところに住んでるんだ? 麓に下りた方がよっぽど楽だろうに」 「私は生まれたときから此処に住んでいた。今更山を下りて暮らす気はないよ」 断言すると、彼はふぅんと相槌を打っただけでその話題を深追いすることはなかった。 その代わりにしばらく何事か考えるようにして、私の方を緊張した目で見た。 「なあ、あんた。今から山を下りることは、本当に出来ないのか?」 「あなた何聞いてたの。絶対に無理。雪解けまで待たないにしても、あと一月は遭難する危険性が物凄く高い。慣れた人間ならまだしも確率は低くなるけど、あなただったらまず間違いなく迷うよ」 彼はがっくりと肩を落とした。 傍目にも明らかな落ち込みように同情の念が湧いた。 方法はないわけでもない。私が彼と一緒に山を下れば、恐らく彼は麓に辿り着けるだろう。 けれど、それを言い出す気にはなれなかった。 山を下るだけならまだしも、そのあと山を登るのは私でも危険が伴わないとは言えない。そして何より。 もう少し彼と一緒にいたい、と。 そう思ってしまった。 罪悪感に駆られて彼を見ると、どうしようかな、何か方法はないかな、と仕切りに首を捻って思案していた。 「俺でも山を下りられるくらいになるにはどのくらいだ?」 「早くて一ヶ月だね。もっと遅くなると一ヶ月半から二ヶ月は覚悟しなくちゃならない。それじゃあ遅い?」 彼が望めば、その方法に気付いて頼めば、恐らく私は彼の願いを叶えるだろう。 けれど彼は、仕方なさそうに笑って首を振った。 「いや、いい。こうなっちまった以上、春まで待つさ。死ぬよりましだもの。世話になっちまうが、いいかい?」 「勿論、私が拾った以上は責任は持つよ」 あったり頷いた私に驚いて、彼は綺麗な目を丸くしていたが、すぐにむっとした顔つきで口を尖らせた。 「拾った、は酷くないか?」 さすがに不服そうな彼に、私はにやりと笑って、「拾ったんだから拾ったんだよ。それとも獲物の兎と同じ扱いがいいの?」と聞くと黙り込んだ。 そして。 そのときから、私は春の訪れが来なければいいと、毎日密かに祈るようになった。 いつまでも、冬であればいいと。 家の中に閉じこもっていると、することは実はあまりない。 私の場合は機織りやら食事の支度やら沢山あるが、彼は暇を持て余すしかない。藁が大量に余っていたから藁沓の編み方を教えたりしていたが、それでも傍に他人がいる以上、沈黙に耐えられなくなることは不思議なことでない。 布を織る傍らで、彼のお喋りに付き合うようになるのは当然の成り行きと言えただろう。 彼の語る世界は、私の知らないもので満ちていた。 「海?」 その単語を聞いたのは、彼と暮らすようになって十日が経過した頃か。 「そう、海だ。俺の故郷」 彼はその単語を呟くとき、きらきらとした目で遠くを見つめていた。けれど、不思議そうに首を傾げる私に、彼は驚いたように丸くした目を向けた。 「知らないか?」 「うん。あなたに話したとおり、私にとっての世界はこの雪山と麓の村だけだから」 はー、と彼は驚愕の溜息を何度もついていた。 「本当に、ほんっとうに、知らないのか?」 余程に信じられない事態らしく、彼はしつこいくらいに何度も私に尋ね、そして私はその度に知らないとはっきり答えた。 「雪原が全部水になったら、そんな感じ?」 「そうだなぁ。それでもまだ足りないくらい広くて深い。途方もないほど大きいんだ、海っていうのは」 そう語る彼の目は生き生きとしていて、見ていてこちらも嬉しくなったが、同時にその『海』という存在に羨望を抱いた。 彼の暮らす世界。 海。 彼は何故、急いでいたんだろうかと、それが不意に気になった。 その疑問を彼にぶつけたのは、出会ってから一月が過ぎたあたり。 私の浅ましい願いはやはり叶えられることはなかったようで、それどころか逆に、今年の冬が終わるのは早いようだった。 待ち遠しかったはずの春が酷く憎い。 彼を閉じ込めていた雪が解けてしまう。 雪解けの水が川となり海に流れ込むように、彼も山を下りてしまうだろう。そして二度と戻ってこない。 私は彼を追っていけない。 住む世界が違うという以前に、私も彼も、己を生かすものたちから離れて長くは生きていられない性質なのだと痛い程に分かってしまった。 「俺が急いでいた理由?」 藁沓を編む手つきも慣れた彼は、首を一巡りさせて笑った。 「単に早く村に帰りたかったんだよ。税を納めに都まで行って戻って、もう半年以上も海のないところを旅して来たからな」 彼の目は何処か哀しそうで、そして今ではもう、覇気がまったくと言っていいほどなかった。 毎日少しずつ、彼は生気を失くしているようだった。海から離れていることが、じりじりと彼の気力を削いでいるのだと、気付いたのはもうずっと前のこと。 きっと海は彼を呼んでいる。 だから今年の雪解けは早いのだろうと、何となく思った。 雪解け水の流れに乗って海へと帰っておいで、わたしの愛し子。 そんな呼び声が聞こえるような気がする。 唯一私の傍らにあった雪すら太陽の熱に溶かして己の胎内へと誘う、その海が憎くてたまらなかった。 「……まだ、春は来ないのかな」 酷く寂しげな声が私を苛む。遠くを見つめる回数も増え、口数も減っている。 私は全てを押し隠して、残念そうな笑みを作った。 「……まだ、みたいだね。でも、きっとあともう少しだから」 そうだな、と答える声は今にも消えてしまいそうなほど儚くて。 食料の残量の心配と、それ以上に彼といることに耐えられなくなって、その日私は猟に出ることにした。 そうでもしないと、引き止めているということの重圧に押し潰されそうだった。 急に真冬のような寒さがぶりかえしていたが、空は晴れやかに晴れていて絶好の日和のように思えた。 しかし、どういうわけか帰り際に吹雪き始め、往生しそうになってしまった。 普段ならば読めないはずのない、天候の変化。 山も、未だに迷っている私のことを責めているのだろうか。 何とか遭難することもなく、得た獲物も無事に持って夜半に家に帰り着くと、彼は戸の開く音を聞くなり腰を浮かせて土間に降りてきた。 そのままぶつかるようなかたちで抱きつかれ、肺をぶつけて思わず咳き込む。 咳の合間に聞こえた、彼の呟き声は酷く掠れていた。 「あんたも遭難したのかと思った……」 ほうっと息をつく彼を見て、じわじわと後悔の念が湧き起こる。 「それほど心配することもなかったのに。この山には慣れてるんだから」 安心させるつもりでそう言うと、真面目な顔で怒られた。 「そういう油断が命取りなんだ。海は気まぐれだからな、俺たち漁師は漁に出るときは絶対に気を抜かない。山でもそれは同じことだろう」 「……そうだね」 分かったならよし、と笑顔で大仰に頷く彼が眩しくて、そうしてその瞬間に覚悟を決めた。 「昨日、狩りに出たときに気付いたんだけれどね、もうそろそろ山を下りられそうだよ」 そう告げると、彼はぱちぱちと瞬いてしばらく沈黙した。私の言葉をじっくりと反芻しているらしい。 「それ、本当か?」 声が震えている。 さびしいとか、かなしいとは、こういうことを言うのだろうかと思いながら、私は僅かに強張る頬を動かして微笑を浮かべた。 「本当。寒さも緩んできてたんだけど、気付かなかった?」 「いや、毎日寒くて全然違いが分からなかった」 「準備が早ければ明後日にでも山を下りられるけど……」 「そうか」 彼はこれまで見たことがないほどの満面の笑みを浮かべた。 それを見たとき、身を千々に引き裂かれそうな切なさと共に、これで良かったのだという哀しい安堵が心中で渦を巻いた。 彼の下山に私は付き合った。 万が一にもこの山の中で死なせるわけにはいかないという義務感と、彼とはもう二度と会うこともないのだと自分の中ではっきりさせるために、彼が山を下り終えるのを見届けて私は独りぼっちの自分の家に戻った。 彼の編んだ藁沓は当分の間どころか一生、見られそうにない。 そういう、彼がこの家に居たのだと、仮初にも生活していたのだと思わせるものは全部藤の籠に押し込んで厳重に封をした。 これでいい。 きっと、この籠は私が死ぬまで開かれることはないだろう。 それでもまだ、家の中には彼の気配が残っている気がして、私は早朝に雪原へと足を運んだ。 広い広い雪原。 雪の上を走る風には匂いはない。色もない。 海の上を駆ける風は潮の匂いがするのだと彼は言っていた。 潮の匂い。 それはどんなものだろう。 海は還るところなのだという。 自らが生きる場所、そして最後に還りつくのが海であるのだと彼は誇らしく語った。 けれど、私にとって海はそんなものではない。 海は、遠くにあって全てを奪うものだ。 私以外の全てがいずれ還りつく場所。 私は雪原に倒れ付す。 晒したままの頬に冷たい雪の感触が優しい。 この雪すら、最後には水となって川を形作り、そうして海へと流れ込むだろう。 けれど私の骸はこの雪原の下に広がる大地に吸収され、山に生きるものの糧となり、そうして私の魂はこの山と共に生きるだろう。 海に還ることはない。此処から離れることはない。 だから、彼に再び廻り逢うときは決して訪れない。 この遠く果てない雪原こそが、私にとってのただひとつの『海』。 すべてをゆるし、そして迎え入れてくれる、孤独な故郷。 だから、今はこの白い海に何処までも深く沈みこみ、彼方の青い海のことはすべて忘れてしまえばいい。 違う海に生きる私たちは、同じ世界に生きることは出来ないのだから。 |