喰 ら い 合 う  の 箱 庭





巡る巡る因果の螺旋。
メビウスの輪の如く繋がれた、始まりと終わりを繰り返す永劫の時空の中をふたりは彷徨う。






歪められた時間の中に彼女は住んでいる。
同じ日をひたすらに繰り返す狂った日常。何度日が巡ったのか既に覚えてはいない。
数えることほど苦痛なものは今の彼女にはなかった。
ただ知っているのは、"今日"という同じ日が繰り返されていることだけ。螺子を巻かずとも時計は全く狂わない。太陽は同じ時間に昇り雲のかたちも流れも変わらない。

「ねえ、起きてよ」

囁きかける相手は寝台の上で安らかに健やかに静かな寝息を立てている。
彼のその、一度も開かれることのない薄い瞼をじっと見つめながら、彼女は何度も何度も同じ言葉を呟く。

けれども別の願いが叶えられたが故に、その願いが叶えられることはない。
彼女が此処にこうして歪なものとして存在している原因であり理由でもある彼は、何も知らないまま穏やかな眠りを紡ぎ続けている。

それが彼女の呪いであり叶えられた願い。

「時を止めて、二度と目覚めることのないように」

呪詛の言葉はその意のままに彼を絡め取り、そして彼女をも願いの中に閉じ込めた。
己の言葉に囚われたことを知った彼女は、ふと当初の歓喜を思い出して苦々しげに眉間に皺を刻む。
――幾ら後悔したところでもう遅いと知っている。時がどれだけ繰り返されようと、巻き戻ることはないのだ。


それでも、絶望に滑り落ちる手前で残酷な神の手に掬い取られたまま。
深淵に臨む精神は蝕まれる寸前で踏み止まったまま。
深遠の淵に足をかけていた彼女は、幾度目かの"今日"にしてついにそれを選んだ。


窓の外で繰り返される昼と夜。春から一歩も進まない季節の針。
自分の部屋に置かれた振り子時計が日付の境を越える頃、彼女の意識は本人の意思なく闇へと突き落とされる。それは眠りのようでいて眠りではない。
明日へ進もうとする、からだの内の何かが無理矢理方向を変えられているような不快感。
軌跡は始まりもなければ終わりのくることもない円を描く。
歩き始めた最初の一歩の足跡に己の足を乗せたと感じた瞬間、彼女は自分の寝台の上で目を覚ます。
家の何処にいようとそれは関係なく彼女を攫う。
それは家の中にあるモノも同じだった。
机の上に放りっぱなしの本は元の位置に、何かを記したはずの羊皮紙はすべて白紙に。同じく使われたインクの壷も毎朝なみなみと満たされている。
外には出られない。扉をくぐろうと塀を乗り越えようと、はっと我に返ったときには自分の部屋に戻っていた。

そんな同じことの繰り返しである彼女の世界でただ、家の壁に張り付く蔦だけは、何故だか時の歪みに晒されることなく己の時を刻んでいた。
捩れた時の長さを知らしめるかのように、日々それは伸びていく。
赤い煉瓦の家は、既に半ば以上蔓草に冒されている。いずれ緑に埋もれる日も近いだろう。
そのとき、自分は一体どうしているのだろうかと、唯一正常な時の流れにある蔦を眺める度に思う。


彼方の塔に住まう魔法使いは、自分と会うことの出来た者の願いを叶えてくれるのだという噂を聞いたのは、いつのことだったか。
真偽は未だ定かではない。ただ彼女自身が知っているのは、魔法使いが自分の願いを叶えてくれたということ。その理由が彼を見つけたからなのか、それとも興が乗ったからなのか、はたまた別の理由があるのかは知らない。
占いでもするような軽い気持ちで彼をおとなった彼女は、酷く思いつめた顔つきで己の願いとそれに至る経緯を語った。
魔法使いは聞いているのかいないのか分からない無表情で、俯く彼女をじっと見つめていた。
――自分はただ、誰かに話を聞いて欲しかっただけなのだ、と気付いた瞬間、魔法使いは低く笑って諾と告げた。

『え?』
『その願い、叶えてあげましょう。実に興味深い』

思いがけない言葉に彼女が呆然としているうちに、強大な力を持つ彼は、あっという間に全ての支度を整えてしまった。
今更願いを叶えて欲しくないとは言えず、またそれを願う気持ちも己の内に残っていて、彼女は仕上げの一言を口に乗せた。

『彼の時を止めて。もう誰のことも見ないように』



何が悪かったのか、彼女自身には断定できなかった。
それは単に運の問題だったかもしれないし、友人としての親しい関係を崩すよりはこのままで、と思ってしまった臆病さだったのかもしれない。
自分を選んでくれないことは諦めることができた。
――けれど他の誰かが特別になることには耐え切れなかった。

穏やかに微笑って花嫁を見つめる彼と、その隣で幸せそうな笑顔を振りまく綺麗な娘。
その光景を目にしたとき、邪な願いは明確なかたちをとって彼女の中に巣食ったのだ。

そうして全てが終わったとき、彼女はふとそのことに気付いて魔法使いを振り返った。
報酬――支払うべき代償は、何。
悪魔は得てして高価で残酷な報酬を要求する。
その問いに、彼は何も読み取らせない笑みを浮かべた。
既に代価は頂いている、とだけ告げて、彼は姿を消した。

残されたのは、二度と目覚めることのない想いびとと時空の歪められたこの家。
彼は手を伸ばせば触れられる距離にいるというのに、酷い孤独を彼女は感じていた。
そうして無為に過ぎていく膨大な時間と罪悪感に苛まれ、彼女の神経は限界を迎えつつあった。

完全に狂ってしまう前に、決着をつけてしまわねばならない。

「ねえ、魔法使いさん」

虚空を見つめて彼女は虚ろな微笑を浮かべる。
きっとあの魔法使いは何処かから自分を観察しているとの確信が彼女にはあった。
右手に鋭く研がれたナイフを握り、首に押し当てる。

「この魔法を終わらせられるかもしれない方法を思いついたのよ、私」

どんな結末を彼は予想していたのだろう。
愚かな彼女は永久に彼に踊らされ続けるだろうと嘲っているのか、いずれ良心と孤独に押し潰されて自害を選ぶだろうとそのときを待っているのか。

皮膚に感じる冷たい感触に、彼女は小さく息を呑んだ。
果物を切るときに使われる小さく鋭利なナイフは、食事を必要としなくなった彼女にとっては不要の代物のはずだ。
実際本格的な調理に使われるような包丁の類は台所には置かれていない。
それなのに何故、これだけは置かれているのか。

「私が此処で死んだら、どうなるかしら?」

魔法の起点は彼女自身だと魔法使いは言っていた。
家の中心にある自室の床には彼の印した不可思議な文様がある。
このふたつが歪な世界の柱だ。
――それを両方同時に損なったら、さすがにどんな魔法でも消滅せざるをえないだろうと、門外漢の彼女でも簡単な推測はついた。
だから、鋏やペーパーナイフでは不足なのだ。

それはある意味では逃げなのかもしれない。
けれど、完璧に狂うまでこの悪夢に晒される罰の代わりに、彼女は己の死を選択する。

「何も、元には戻らないでしょうけれど」

外では一体どれだけの時が経過しているのか。まだ知り合いは生きているのか。
彼から奪ってしまった時間を返すことはできないけれど。
「それでも、自由にすることはできるわ」

『あなたは後悔することになるかもしれませんよ?』

くつくつと低い笑い声の記憶が、意識の底を掠めていく。
「……後悔は、そうね、してるわ」
かちり、かちり、と時を告げる振り子時計の音がやけに大きく頭蓋に響く。
刹那目眩を覚えて、彼女はぎゅっと目を瞑った。

「でも、例え一瞬だけでも、確かに私は幸せだったわ」
だからもういいの。

時計が、最後の一秒を刻んだ。







悪夢というのなら、おそらくこれ以上の悪夢はない。
まさしく血の海と呼ぶのが相応しいような惨状の中で、これ以上はないというほど安らかな表情で彼女は横たわっている。
既に鼓動の止まった、血塗れの小さな体躯と血臭に視界が歪んだ。
立っていられず膝をつく。

「……どうして」
彼女から視線を外すことができず、彼はそのままで何処へともなく掠れた叫び声を上げた。
「――どういうことだ、魔法使い!」
血を吐くようなその声に、答えるものはなかった。


目覚めは唐突に、そして強い不安をもって彼を襲った。
――此処は、何処だ。
見慣れぬ部屋に違和感を覚え、そしてすぐに納得する。
次に思ったのは、彼女が何処にいるのかということ。光から遠ざかっていた目に昼の明るさは少々つらいものがあったが、構わず寝台から滑り降りるように這い出してドアノブに手をかける。
家を囲む塀の向こうへは出られないはずだから、きっと家の中にいるのだろうと思考を巡らせたとき、鉄のような臭いが鼻をついた。

駆けつけたときには既に遅かった。
それもそのはずだ。彼がこうして目覚めたということは、魔法が解けたということ。

そして、魔法が解けるための条件は。

「……馬鹿だなあ」
ひく、と引きつったような笑いが喉の奥を引っかく。唇の端を歪めて、彼はその光景をただ見つめていた。
本当に愚かなのは彼女ではなく自分だ。
どうして、と再度意味のない問いかけが口を突いて出て、彼は唇を噛んだ。
こうなるかもしれないと頭の何処かでは分かっていたはずだ。全てを仕組んだのは彼自身だったのだから。


――願いを気まぐれに叶えるという魔法使いを捜し当てたのは、半ば偶然だった。
最初はうんざりした様子で彼の話を聞いていた青年は、次第に興味深げに目を光らせ、仕舞いには彼の願いを叶えてあげようと約束してくれた。
そのときの声を、彼は決して忘れないだろう。
それは悔悛を促す天使の声であり、かつまた誘惑する悪魔の囁き。

『ただし、条件がある。……彼女が君と同じことを僕に願ったら。そのとき君の頼みを叶えよう』

多分そのとき、彼の中で何かが狂った。

恋人となるには難しいことでも、友人になるのはそれほどのことではない。
内気な彼女は最初こそ怯えていたが、次第に笑顔を見せてくれるようになった。
そして少しずつ小さなことを積み重ねて。
自分に友情とは違う好意を持ってくれたようだと気付いたときに、素直に告白すればよかったのだ。
そうすれば今頃、彼も彼女も通常の時間の流れの中で幸せに暮らしていたことだろう。
けれど魔法使いの言葉に縛られていた彼は、そこでその道を選ぶことはなかった。

「……誰にも、奪われることのないように」

檻の中に閉じ込めることを、彼は選択した。
手練手管にさほど長けていない彼女は、彼の行動に容易く振り回された。
彼が恋人の気配を見せれば泣きそうになり、優しく振舞えばほっとした様子で嬉しそうに微笑う彼女が酷く愛しかった。
けれど、それでも不安は消えなかった。より一層強まったといっても過言ではない。

――自分と同じところまで堕ちてくればいい。そうすれば。

そして深くなるばかりの妄執を叶えるための最後の手段として選んだのは自分の結婚。
狙い通りに彼女は彼の掌の上に堕ちた。

願いの代償は彼自身の命。生命力と引き換えに残酷で堅固な繭は作られた。
故に彼は眠り続け、彼女は歪んだ時間を彷徨い続ける。

それで良いと思っていた。
彼女が彼以外の誰を見ることも想うこともなく、ただふたり共に閉じられた世界に在れれば。
たゆたうようなまどろみの中で、哀しげな彼女の声に時折聞き焦がれるような切なさを覚えながらも、彼は幸せだった。

それなのに、終わりは意外なかたちで突然彼を襲った。

とうに冷たくなった頬に指を這わせる。固まりかけた血がはらはらと零れていった。
閉じられた目が自分を見ることはもうない。

乾いた唇を合わせると、苦い血の味がした。