切欠は子供らしい冒険心だったのか、怖いもの見たさの好奇心だったのか。 今となってはどちらともつかない、その一度きりの無謀が、私の未来を決めてしまった。 見かける度に、気になっている家があった。 否、実際のところ、住宅なのかどうかすら通りがかりにちらりと眺めただけでは分からない。 空から見下ろせば、住宅街の中にぽつんと緑の染みがあるようにでも見えただろう。 手入れのされていない樹々が両脇から覆い被さるように鬱蒼と茂る、小さな小道。途中で大きくうねっているため、それが何処に続いているのか外から窺うことは出来ない。 かろうじて家だと判断出来る材料は、道の脇に立てられた、錆付いた赤いポストぐらい。それも既に深緑に半ば以上埋もれかけていて、じっくり観察しないと分からない。表札は勿論なかった。 この、ろくな舗装もされていない、畦道か獣道かといったところの細い道の向こうに何があるのか。 確かめてみようと思ったのは、ある日の帰り道のことだった。 クラス替えが終わって二週間。以前からの友人とはことごとく離れ、明るいとは言えない性格の私が孤立するには十分な時間だった。 帰宅は当然、ひとり。 とぼとぼと歩いていたところ、ふとその小道が目に留まった。 ただそれだけ。 半ば衝動的に、私はそちらに向かって歩き出していた。 此処が本当に他人の家なら、不法侵入になるんじゃないかとか、ばれたら怒られるとか、そういった恐れの気持ちが湧き出したのは曲がり角を越え、アスファルトで覆われた道路が見えなくなってからのことだった。 はっと我に返った私は、どうせもう入り込んでしまったのだし、この際だから確かめてから帰ろうと、自棄っぱちな気持ちで足を進めた。 とうに朽ち果てた家か、それとも雑草の生い茂る更地か。どうせそのどちらかだろう。誰に会うはずもない。 日差しを遮り、枝がしなるほどに葉を付けた木々のせいで道は昼間にしては不気味なくらい暗かった。 右へ曲がり、左へうねる道を数十秒も歩いただろうか。 唐突に視界が開けた。 ざあ、と風が吹きぬける。 ――其処にあったのは、楽土と疑うかのような小さな庭園。 正面には花も盛りの枝垂れ桜、その周りには種類も色とりどりの花々が、自身を誇るように空を仰ぎ咲いている。 百花繚乱、目を瞠るばかりの華やかな宴を前にして、私はただぽかんと立ち尽くした。 「――おや、これはまた珍しい」 突然響いた低い男のひとの声に、私は文字通り飛び上がった。 勝手に入ってごめんなさい、すぐに出ていきますからと、泣きそうになりながらぺこぺこ頭を下げていると、大きな手がぽんぽんと髪を叩くように撫でた。 おずおずと顔を上げる。 生成りの地味な着物に、鼠色の羽織を纏った青年は、怯える私を宥めるようににっこりと微笑んだ。 「お客さまはいつだって歓迎だ。それがこんな可愛らしいお嬢さんなら尚更ね。時間があるならおいでなさい。粗茶で良ければ馳走しよう」 こちらに、と優雅な仕草で招かれた先は、小さな庵。 熱いお茶と、品の良さが漂う美味しい和菓子を振舞われ、人心地ついた私は、改めて謝った。ひとの敷地に勝手に入るのは泥棒と変わらない。羞恥に顔を真っ赤にしながら、私は泣きそうになるのを必死にこらえていた。 私のそんな様子に、どうしたものかなあと彼は困ったように眉を下げ、しばらく考えたあとにこう言って笑った。 「じゃあこうしよう。また来週あたり、いつでも都合の良いときに何かひとつ、君の宝物を持っておいでなさい。それを僕に見せてくれるということで家に入ったことは帳消しにしよう」 その言葉通り、次の日曜日。 私は祖母から貰った、大切なお気に入りの千代紙を両手に抱えて彼に会いに行った。彼はそれをとても褒めてくれ、それではうっかり調子に乗ってしまった私は、気付けばまた来ても良いかと図々しくも訊ねていた。 彼は嫌な顔ひとつせず、むしろ嬉しげに頷いてくれた。 かちりとひとつ、歯車が回る。 オダマキ、小手毬、芝桜。夏には百合やダチュラが花開き、秋には竜胆、コスモス、曼珠沙華。 他にも数え切れないほどの花が、新しい季節を迎える毎に所狭しと咲き誇る。 不思議なことに、彼はその花々の手入れをあまりしていないようだった。というよりもむしろ庵に飾るためや、お土産に、と切ってくれる他には私の見ていた限り、一切、何もしていない。 疑問に思って訊ねても、ただ穏やかに笑うだけ。 そのうちに私もどうでも良くなって、この庭はこういうものなのだと疑うことを放棄してしまった。 しかし雪の積もる真冬に庭の片隅の向日葵が満開になるに至って、さすがに不気味なものを感じた私は彼を問い詰めることにした。 「そういえば。此処がどういうものだか、話していなかったね」 男爵さまや伯爵さまがまだこの国に存在していた遠い昔の話。 ひとりの貴族が囲った村娘のために作ったのが、この庵と庭なのだという。 「まあ政略結婚にはよくあることだけど。夫婦仲の良くなかったそのお貴族さまは、娘をとても愛した」 例え自分が愛していなくても、夫たる人間が他の女を自分よりも愛しているのは気に食わない。 その上、正妻より先に愛妾が男児を産んだということで、奥方の矜持はいたく傷付いた。 その後間もなく、彼女も男の子を産んだことで後継者争いが勃発し、結局その子供は養子に出され、娘は庵ひとつを手切れ金代わりに与えられて全ての縁が切られた。 「そのとき、彼は愚かにも娘にこう言ったそうですよ。――いつか迎えに行くから、待っていてくれと」 娘はその言葉を信じ、ずっと此処で彼が来るのを待っていた。 「その長い長い待ちぼうけの手慰みに作られたのが、この庭です」 その言葉で、結局迎えは来なかったのだと悟った。 ――いつかあのひとが迎えに来てくれるのだと。 蜘蛛の糸より細い期待を胸に、衰えてしまった容色の代わりに美しい庭で彼を迎えるのだとひたすらに花を育て続ける老婆の姿。 季節外れの向日葵の傍に、そんな幻を見た気がした。 向日葵に向けられた私の視線に気付いたのだろう、相変わらずの地味な苔色の着物を纏った青年は静かに唇の端を吊り上げた。 「此処の花はね、だから彼女が手入れしているのですよ。いつ彼が来ても良いように、いつもどれかが咲いている」 怖いですか、と訊かれて咄嗟に勢い良く首を振った。 こぽこぽと、淹れたばかりの緑茶が音を立てて湯呑みに注がれる。 その音が奇妙に大きく響く沈黙に耐え切れず、私は口を開いた。 「……ねえ、それならあなたは何で此処にいるの?」 音が止む。 ゆっくりとこちらを振り返った彼は、おもむろに目を細めて、 「僕も待っているのですよ」 その笑みの透明な深さに、それ以上踏み込むのはためらわれて、私は口を噤んだ。 ただ分かったのは、私はその待ち人にはけしてなれないという事実。 彼の心に棲んでいるのは別のひと。 淡い気持ちはぱちんと弾けて消えてなくなり、残ったのは僅かに軋むような空虚。 そんな風に、誰かが私を待っていてくれたらいいのにと。 せり上がって来た戯言は、お茶と共に飲み込まれ、言葉になることはなかった。 またひとつ、歯車が回る。 さて、初めて私が此処に来てから何年目のことだったか。 物好きですね、と彼が笑っていたくらいだから、結構な時間が巡っていたのだろう。 庭の入り口に、佇むひとりの女性を見かけた。 顔立ちは十人並み。古めかしい菖蒲色の小紋を纏ったその横顔に、何故かぞくりとするものを覚えて私は立ち止まった。 彼女がこちらに気付いて視線を向ける。 柔らかく微笑まれて、ふわりと温かな気持ちが心に広がる。 一瞬でひとの心を解かす、極上の微笑だった。 このひとに嫌われるのは、酷く哀しい。 敵意に近い何かは消え失せ、つられるように笑みを浮かべて会釈した。 庭の花は今日も満開だった。 先ほどの女性の話をすると、彼の顔から血の気が失せて蒼白になった。 予感は確信になり、それを裏付けるかのように、話も半ばで彼が裾を絡げて外に向かって走り出す。 そしてそのまま、彼は還って来なかった。 数日後、妙な威圧感のある黒服の男性が私の家をおとない、庭の管理人をしないかともちかけてきた。 迷うことなく私は頷き、身辺を整理してあの庵に引っ越した。 庭は相変わらず美しく、私を歓迎するかのように咲き誇っていた。 ただ、庵の入り口近くに植えられていた菖蒲だけが枯れてしまっているのに気付いて小さな寂しさが過ぎる。 私は何の花を植えよう。 此処は、誰かを待つひとのための庭。 けれど、待ち人のいない私は、一体誰を待てばいいのか。 私はこの庭の主にはふさわしくない。 その事実は重く圧し掛かり、美しい花々にも心は慰められず、かといってこの庵から離れることも出来ず、私はただ漫然と日々を過ごしていた。 そうして幾年。新しく植えたあやめが花をつけたその六月。 久しぶりにひとの気配を感じて、私は庭に下りた。 私よりもこの庭にふさわしいひとがやってきたのかもしれない。 やっと解放されるという喜びと、此処から出ていかなくてはならないという悲しみが心中に渦巻く。 迷い込んできたのはどうも年の近い青年のようだった。 黒い星のような綺麗な目が申し訳なさそうにこちらを見つめる。 ――ああそうか。 唐突に理解して、私は密やかに微笑む。 冷たいものが頬をつたった。 彼が驚いて目を丸くし、慌てて近寄ってくる。 そうして傍までは来たものの、どうすれば良いのかと困ったような顔をしていた。 それが妙におかしくて嬉しくて、私は久々に喉を鳴らして笑った。 優しい指がためらいがちに頬を拭う。 私を待ってくれる、誰か。 きっとそれを私は待っていたのだろう。 |