Aquarium. かたんことんと規則的な振動が身体を揺らす。 背もたれにゆったりと腰かけた私は、流れてゆく景色をぼんやりと目で追った。どこにでもあるようなビルと家並み。 車内は彼女と私以外誰もいない。平日の昼間はこんなものなのかと少々拍子抜けした。 じわりと眠気が身中から這い上がってくる。それに意識を預けて、私は今朝のことを思い返していた。 学校は好きでもなければ嫌いでもないが退屈だとは思う。 太陽がゆっくりと空を昇る。それと共に肌にまとわりつく熱気が朝の清涼な空気をどこかへ押しやっていった。 門が開いたばかりの頃に私は登校する。特にこれといった理由はない。 強いて言うならば、誰もいないその雰囲気が好きだからだろうか。 誰もいない点では放課後も同じだ。けれどそこには昼間の生徒達の気配が色濃く残っている。朝なら、夜にすべてが払拭されてまっさらに近い状態になる。それが私は好きなのだ。 中庭のその中央には小さな池のようなものがある。 ようなもの、というのは、私の基準ではその池は池とは認められないからだ。 草や土のない、左右と底がコンクリートで固められた楕円形の水槽。中央には人工的なオブジェが配されている。 その細長い水路に魚の影が走った。 淵に立って魚達を眺める。腐りかけた水の中を泳ぐしかない彼ら。出口はどこにも存在しない。 彼らは知っているのだろうか。その狭い世界の外側を。 けれど知ることはないのだろうとも思う。外に繋がる水流はない。 ふと視線を感じた。 首を巡らせて門の方に目をやると、黒髪の少女が歩いてくるのが見えた。同じクラスに在籍している子だ。迷うことなく私の隣までやってきた彼女は、同じように魚を眺める。 相変わらず綺麗な少女だ。すぐ近くにある横顔は白く端正で華やかさがある。険しく眉を寄せた状態でさえ見苦しさは生じない。 私の視線に気付いたのか、彼女はこちらにその目を向ける。 綺麗な青だと思った。透き通って深い水の色。 私はこれまで彼女の目をまともに見たことはなかった。声を交わしたこともおそらく片手で足りる回数だろう。 手を差し伸べられた。雪花石膏の肌に容赦なく朝日が刺す。 ろくに知らない相手なのに、私はその手に自分のそれを重ねた。 そのまま私の手を引いて彼女は歩き出す。 校舎に背を向け、どこへとも知れず。 私は初めて授業を無断欠席した。 あのときから手は繋がれたまま、けれどひとつとして言葉は交わしていない。 車内アナウンスが次の停車駅の名を告げる。 そっと目配せされ、やっとそこで電車を降りることを知った。 一時間ほど電車に揺られて辿り着いた街は、言うまでもなく私の訪れたことのない街だった。 その中のとある道を彼女はすたすたと歩いていく。 私は彼女の胸元にひらりひら、と揺れる蝶のような赤いリボンとまろやかな肩の線にただ見惚れていた。がりがりに痩せて骨ばった私の肩とは比べるべくも無いほど優雅なラインだ。 いつの間にか繁華街らしき通りを抜け、裏道に入っていた。 猫のようにしなやかに彼女は歩いていた。その後をつっかえつっかえ私が辿る。 傍から見れば奇妙な光景だっただろう。 けれど不思議なことに、もうとっくに起き出しているはずの街の人間とすれ違うことは一度もなかった。 彼女の行き先がようやく分かった。 確かこの街にはあまり大きくないが、水族館があるはずだ。 そしてその予測通り、私はややさびれた感のある建物に導かれた。正面の壁には、はがれかけた青のペンキで水族館とだけ記されている。その両脇にイラストが描かれていたような跡があったが、既に何が描かれていたのか見て取るのは不可能になっている。 受付の女性は、訝しげに顔をしかめて入場料を受け取った。 前後に並んでいた私と彼女は、今度は隣に並んで歩いた。 建物の中は薄暗い。水槽だけがライトを浴びて光っている、暗い蒼の世界だった。 絨毯が足音を吸収するせいか、誰もいない館内の静謐は乱されることもない。 彼女は手を離し、ふらりとひとつの水槽に近寄っていく。 私はといえば、水の中をのんびり泳ぐマンボウの奇怪さに半ば呆然として見入っていた。 しばらくじっと目で動きを追っていたが、それにも飽きて、彼女の行方を捜して私は首を巡らせた。 彼女はまだ最初の水槽の前にたってひたすら見入っていた。 他に興味を惹くものもなかったので私はその隣へ歩いていった。 彼女は陶然としてサメに見入っていた。頭が四角く口が大きい。 他と比べてかなり大きい水槽に入れられていたそれは、私たちの視線を気にすることもなく悠然と旋回していた。 脇に置かれた説明を目で追う。WHALE SHARK――ジンベイザメ、と書かれていた。 「サメの中では比較的穏和なのよ、このサメは」 柔らかく響く声がした。 聞き覚えのない声に戸惑って私は瞬きを繰り返した。ようやく思い当たって彼女の方を見ると、にっこりと満面の微笑みを浮かべている。微かに上気した頬とその心底嬉しそうな表情は、まるで片恋の想い人に声をかけられて舞い上がっている少女とでも形容できそうだ。 「素敵でしょう」 そう言ってこちらを見つめてくる彼女の青い目には、今朝方感じたような神秘的な雰囲気は全くなく、きらきらと輝いていて、生命力の強い美しさを感じさせた。 恋する瞳、とはこんな目のことを言うのだろうかと私は頭の片隅で思いながら頷いた。確かにこのサメは素敵だ。 虜囚の身でありながら、どこか余裕を感じさせるところが良いと思う。 学校の中庭の魚たちのようにその他の環境を何も知らず、現在の状況を甘んじて受け入れているのとは違う。諦観とも違う。 何といえばいいのだろうか、分からない。けれどともかく、私の心にもこのサメに対する強い憧れが生まれた。 「いつか海で彼らと会うのがわたしの夢なの」 うっとりと潤んだ目でしばしジンベイザメを見つめたあと、彼女はくるりと私の方に向き直った。 先ほどの陶酔は微塵も残っていない、悲哀の混じる儚い目が私を見つめた。伸ばされた手を私は掴む。 「わたし、あなたが好きよ」 私は戸惑って何度か瞬いた。 けれど何か答えを返す前に、彼女はサメに背を向けて歩き出した。 何をするでもなく、ただ私は彼女に従って水族館を後にした。 外に出た途端、冷房に冷やされた身体を夏の光がじんと刺した。 帰ると、案の定、母親が鬼のような形相で立っていた。 どうして学校を無断で休んだのか、どこへ行っていたのかと詰問されたが私は黙秘を貫き通した。ごまかすようなことはしなかったが何も話さなかった。 翌日彼女に会うのが楽しみで、その夜は中々寝付けなかった。 子供のような自分がおかしくて、布団の中でくすりと笑った。 けれど翌朝登校した私を待っていたものは、彼女が転校したという知らせだった。 あまりの衝撃に固まりきっていた私の耳を、担任の声が素通りしていく。 親の都合で急遽、外国に渡ることになったというその事情を理解できただけでも上出来だろうというぐらいには自失していた。 なぜ、という言葉がぐるぐると私の頭の中で回った。 そして唐突に何もかもがすとん、と腑に落ちた。 だから彼女は昨日の朝、私を連れて水族館に行ったのか。 私にとっては出会い、彼女にとっては別れ。 その日の夜、私は初めて周りを気にせずに泣きじゃくった。 翌日、彼女に連絡を取ろうとしたが、どういう事情があるのやら、彼女の新しい住所を知ることは出来なかった。 それから私は夏になる度にあの水族館へ行き、飽くまでジンベイザメを眺めている。 きっともう私と彼女の道が交わることはないのだろう。 そう思いつつも、私はジンベイザメの水槽の前で待ち続ける。 いつか、彼女と海に潜る日が来ることを願って。 Fin. Back |