※ 「萎れた花には水を」リライト作品。
おとぎばなしの外で [ 前 ] 眼下に広がるのは果ての見えない黒い森。 鴉がギャァと不吉な声で鳴くような、深く暗い闇を孕んだ不気味な気配に、彼女はひとつ溜息を吐いた。 窓の外の景色から目を離す。 振り返ると、十歩ほども歩けば端に届く広さの部屋が見渡せる。床には毛足の長い柔らかな赤い絨毯が敷かれており、隅の寝台は天蓋付きの豪勢な代物だ。 無駄に豪華なこの部屋が、今の彼女にとっては世界の全て。 高い塔に閉じ込められたお姫さま。 彼女の現在の身の上を一言で表すのならそんな一文が似合いだろう。 むかしむかし、というほど過去のことではない。 深い森の奥に住まう偏屈な悪い魔法使いが、ある日、とある国の王さまに約束通り娘を寄越せと要求してきた。 少し前に彼に命を救われた王さまは、その見返りとして自分の娘を魔法使いに差し出す契約を交わしたのだ。 死なずに済んだ王さまは、今になってそのことを悔いていたが、約束を破るわけにはいかない。魔法使いとの約束は絶対だ。違えれば呪いがその身に降りかかる。 「ご機嫌はいかがかな、お姫さま」 嫌味に明るい声が唐突に耳に届く。 視線を向けると、彼女の他に誰もいなかったはずの室内にひとりの青年が立っていた。 大きく分厚い木製の扉の鍵は、錆付いていて開かない。彼女が先ほどまで眺めていた窓もはめ殺しだし、そもそも地面から遠すぎて登ってくることは出来ない。 そんな出口のない閉じられた箱の中に突然現れることの出来る人間は限られている。 長い前髪に隠されがちな瞳は驚くほど蒼く、痩せた体にゆったりとしたローブを纏った彼は、彼女を此処に閉じ込めた『悪い魔法使い』。 一見穏やかに見える微笑の裏に、棘がびっしりと仕込まれていることを彼女は知っている。 けれどそれは彼女自身というよりはその向こう側にあるものを嫌悪し見下しているようにも見え、だから彼女は彼が自分を厭っているのか好いているのか分からない。 沈黙の中、返答を促すように見つめてくる碧眼を睨みつけると、諦めたような溜息が零れた。 「仕方ない――また明日、ディアノーラ」 彼に名前を呼ばれる度に覚える違和感。 それに戸惑ってひとつ瞬きをする間に、彼の姿は掻き消えていた。 「……ばかな男」 吐き捨てるようなその口調に強さはない。 崩れ落ちるように座り込んだ彼女は、自嘲気味に笑いながらぽつりと呟いた。 「私はあなたの欲しがってるお姫さまなんかじゃないのに」 姫君は渡したくないが、呪いを受けたくもない。 困った王さまは一計を案じることにした。 ――貧しい家から娘をひとり買い、身代わりを立てたのだ。 お姫さまと似た色の髪と瞳。顔立ちや体つきは大分貧相だけれどもそれで充分と考えたのだろう。 高貴な姫君らしい仕草と言葉遣いを覚えさせられ、そうして彼女は此処に送り込まれた。 彼女の代わりに魔法使いの籠に飼われて果てるように。 * 彼女が閉じ込められた部屋の中には、生活していく上で必要なものが全て揃っている。 食事の時間には彼が使役している妖精が美味しい料理を運んでくるし、きらびやかなドレスや絹の寝巻きが毎日用意されている。 ろくに文字の読めない彼女には無用の長物だが、退屈を潰せるように本棚までしつらえてあった。 その中で、かろうじて理解出来た子供向けの絵本の幾つかが椅子の上に放り出されている。どれも彼女の好きな話ばかりだったので、それだけはとても嬉しかった。 「あたしには考えられなかった生活ね、こんなの」 ぽろりと口から零れ落ちたのは昔使っていた少々崩れた言葉。 ――あの頃に比べれば、此処はまるで天国のよう。 あばら家で寒さに凍えて手足を縮めることもなければ、食べるものの心配も要らない。 日雇いの仕事で糊口を何とか凌いでいたが、あのままだったら今頃は体を売っていたかもしれない。 「……家族はどうしてるかしら」 今はもう遠い存在になってしまった、顔も思い出せないひとたちのことを考える。 どのくらいの値段で自分が買われたのかは知らないが、それで少しでも生活が楽になっていればいいと思う。 裸足の足で絨毯を撫でる。くすぐったいような暖かいような感触が楽しくて、床に倒れこんで頬擦りをした。 小さい頃に一度抱き締めたことのある野良猫よりずっとふかふかとして柔らかい。 本物のお姫さまだったらはしたなくてこんなことなどしないだろう。 こんなところを見られたら即座に正体を見破られるに違いないなと思うと、くすくす笑いが止まらない。 「……あたしを身代わりにしたお姫さまはどうしてるかなぁ」 魔法使いとの約定を知っているのは王さまと、その信頼出来る部下たちだけなのだと世話係だった老婆が言っていた。 何も知らずに幸せな暮らしを楽しんでいるだろうか。 「……そうだといいなぁ」 そうでなければ、何のために自分が買われたのか分からなくなる。 ゆるゆるとやってくる睡魔に身を任せて、彼女はそうっと瞼を閉じた。 ――此処の生活は、退屈だけれど、前の生活に比べればずっとましだ。 いつまでこんなことが許されるのか、不安を抱えていたりはするけれど。 貧しい小娘が付け焼刃でお姫さまの振りをしたところでたかが知れている。 殆ど言葉を交わしていないが、彼女は魔法使いの目は節穴ではないと思っている。 彼はきっと、既に気付いている。 気付いていながら彼女に何も言ってこないなどと言うのはどう考えてもおかしいのだけれど、彼女はそう確信していた。 そのうちに何かが起こるだろう。 「……出来ることなら、気付かないで、いてくれれば」 よかったのに、と呟く言葉は眠りに呑まれて声にならない。 それが何に起因する想いなのか、彼女には分からない。 たゆたうようにゆらゆらと、夢の狭間を彷徨う。 もしかしたらこの生活も夢なのかも知れないと思うと恐ろしくて、彼女はきつく目を瞑った。 長い昼寝から覚めてみれば、既に日は暮れて暗くなった部屋に月の光が差し込んできていた。 それを頼りにランプを手繰り寄せて火をつける。ついでに壁に備え付けられた蝋燭に順繰りに灯りをともしていくと随分と明るくなった。 「……こう、だらだらした生活してると太りそうね……」 姫君の振る舞いを習っていたときも、食事中の礼儀について学ぶとき以外は粗末な食事だった。 そのせいでがりがりの体型は変わっていなかったのだが、確かにこのところ多少ふっくらしてきたような感じがする。 「妖精が来てないところを見ると、まだ夕食前なのかしら」 大抵夕暮れ頃にやってきていたはずだが、支度が遅れているのだろうか。 「ごめんね、どうも火が強すぎたようで焦がしたらしい。もう少し待ってもらえるかな」 「――!」 振り返ると、楽しそうに笑う魔法使いが扉の前に立っていた。 「……」 「ねえ、お姫さま?」 ぞくりとするほど冷たい声で、彼は一歩彼女に近づいてきた。 逃げなければ、と思考の何処かが警笛を鳴らす。――けれど足は動かない。 「僕があなたを欲しがったわけが分かりますか?」 分かるわけないじゃない。 叫び出したくなるような気持ちを抑えて、彼女は彼を睨み返す。 男性にしては華奢な腕が伸びて、神経質そうな細い指が髪を捕らえた。 香油を塗られて毎日きちんと手入れされたそれは、自分のものとは思えないような黄金色の輝きを放っている。 「知らないでしょうね」 一筋を手にとっては指に絡み付け、するりと抜いて解く動作を繰り返す。 「正直何でも良かった。あの王を助ける気になったのも単なる気まぐれで、ただで助けてやるのもつまらなかったから困りそうな要求をつきつけてみただけ」 不意にその指が髪を握り締めて、ぐいと引っ張った。 「い……っ」 体勢を崩したところを抱き留められる。 他人の体温というものに触れなくなって久しい彼女は、うろたえて離れようともがいたが、細い割に力のある腕は離すどころか更にきつく抱き締めてくる。 「でも、ここまで酷い男だとは思わなかった。てっきり大人しく娘を差し出すか――差し出されてもそんなもの、頃合を見て王宮に帰すつもりだったけど――断るか、どっちかだと思ったのに」 ねえ、と耳元で呼びかける声は優しく、そして凍えるような冷ややかな響きで囁いた。 「哀れな偽物のお姫さま、君の本当の名前は?」 支柱を失った世界はぐらりと揺らいで、かしゃんと脆い音を立てて崩れていくように。 青ざめた唇があえぐように僅かに震えて、そしてきつく引き結ばれた。 この蒼い眼にごまかしは効かない。 「私を、殺すの?」 問う声はか細かったが、震えはしなかった。 「殺さない。……君の名前は?」 ――『あたし』の名前。 きらびやかな虚飾のドレスを纏う前の、貧困にあえいでいた娘の名前。 そんなものは、身代わりとして買われたときに喪われた。 「忘れたわ」 揺れる不安定な足場に立っているかのような不安と焦燥が意識をじりじりと灼いていく。 その答えが彼には気に入らなかったようで、不機嫌そうに顔をしかめた。 音も立てずにするりと耳元に顔を寄せる。吐息が耳朶を撫ぜて鳥肌が立った。 「アマーリエ」 ぱきん、と何かが割れる音。 懐かしい響きに、まなじりから一粒雫が滑り落ちる。 「……違う?」 余裕に満ちた声が遠ざかる。 高い塔から身を投げたかのように、意識は急降下して闇に落ちていった。 *** 意識を失ったアマーリエの身体を抱えなおしながら、魔法使い――ツィレルはくすくすと笑みを零した。 いつの間にか集まってきた妖精たちが、そんな主人を物珍しいもののように興味深げな顔つきで見上げている。 事実、彼が声を上げて笑うことなどここ数年なかったことだ。 「お姫さまなんてもの、面倒くさくて邪魔なだけだったんだけどね、本当に」 寝台に華奢な身体を横たえて、猫のように目を細めて彼女を見下ろす。 顔色の良くない彼女の瞼に軽く唇を寄せてまた、くすりと笑う。 「退屈なのは僕だって同じだったんだよ、アマーリエ」 魔法使いというのは孤独な職業だとツィレルは思う。孤独が嫌いなわけではないが、時折厭になるほど退屈だ。 同門の徒でも居ればまた違ったのかも知れないが、あいにく彼には兄弟弟子もいなければ、実力を競い合えるような友人もいなかった。 研究は勿論楽しいけれども、新しい刺激が殆どない生活というものは酷くつまらない。 一度日常に退屈さを覚えると何もかもが面倒になり、研究意欲も減退していった。そういう意味では彼は魔法使いにはあまり向いていない性格なのかもしれない。 このままではまずかろうと気分転換に外へ出たら、王さまだという男が狼の群れに襲われて死にそうになっていた。 たまには人助けのひとつでもするかと杖を取り出したところで、彼はツィレルに気付いたのか「助けてくれたら何でも欲しいものをやる!」と情けない声でわめいた。 正直見返りなどどうでもよかったのだが、その一言に気が変わった。 「自分で言うのもなんだけど、基本的に人間嫌いだからね、僕は」 困らせてみるか、と昔話の魔法使いのように姫君を要求してみたところ、想像の斜め上の現実がやってきたときにはさすがに驚いた。 「意外なことをしてくれたけど、最悪な男だったな」 予想外の事態は嫌いではない。退屈を嫌う彼からしてみれば、そちらの方がずっと好みだ。 けれど、と彼は絵本をどけた椅子に座りながら思考を巡らせる。 「こういうえげつなさは好きじゃない」 とんとん、と肘掛を指で叩きながらしばらく黙考を続ける。 彷徨わせた視線がふと、彼女を捕らえて優しく眇められた。脇の机に重ねられた絵本を撫でる。 「……そうそう、絵本は君のために用意したんだよ、アマーリエ」 * 目覚めて最初に視界に入ってきたのは、彼女の周囲にわらわらと群がって顔を覗き込んでくる妖精の集団だった。 好奇心に満ち満ちた幾対もの小さな目がじいっと彼女を見つめている。 「……」 一瞬、驚きすぎて声も出ない。 お伽話のように美しい生き物ではなかったけれども、頭でっかちなところが妙に愛嬌たっぷりな彼らは、彼女が起きたことに気付いてきゃーきゃー声を立てながら床に飛び降りる。 そのまま散り散りになって壁の向こうに消えて行く彼らをぽかんと口を開けて見送る格好になったアマーリエは、ふるふると頭を振って体を起こした。頭が重い。 ぐるぐる捩れながら回転する視界に思わず目を閉じると、衣擦れの音が耳朶を打った。 間もなく、とんと額を突付かれて再び寝台に逆戻りする。 「……まだ寝ていた方がいいよ」 「……いつからいたの」 何が可笑しいのか、くすりと彼は笑って「ずっとだけど」と肩を竦めた。 「ちょっと用事があるから出掛けてくるけど。何かあれば其処の鈴を振ってね」 その言葉に、アマーリエは訝しげに眉をひそめた。 じゃあ、と背を向けて杖を取り出した魔法使いの服の裾を引っ張ってこちらを向かせる。 「ねえ、あたしを追い出さないの?」 「追い出す理由はないよね」 「あたしが此処にいる理由もないわ」 不意に、獲物を爪に捕らえた猫のように細められた蒼い目が彼女を見下ろす。 「此処から出て、何処か行くあてが君にある?」 「……」 「具合が悪い人間を追い出すような酷なことは幾ら僕だってしないよ」 むっとした顔つきで俯く彼女の頭を、骨っぽい手が宥めるようにぽんぽんと撫でた。 「おやすみ」 その声は意外なくらいに優しくて、戸惑った彼女が顔を上げたときにはもう、彼の姿はなかった。 そのまま彷徨う視線が、ふと寝台の脇に備え付けれた台の上で留まる。 明るい金色をした、掌に載るような小さな鈴。それに手を伸ばして、からんからんと軽く二回振った。 鈴を二回鳴らすのは、妖精たちを呼ぶ合図。 三回鳴らせば魔法使い本人が来るからと、初めてこの部屋に案内されたときに説明された。 三回鳴らしたことは一度もない。 ――そんなことしたらをしたら、きっと逃げられなくなる。 手にした小さな鈴が不意にとても重たいものに思えて、彼女はそれをもとの場所に戻した。 その間にも鈴の音を聞きつけた妖精たちが扉を擦り抜けて続々と集まってくる。 「ねえ、こういうお姫さまみたいな服じゃなくて、町の女の子が着てるみたいなもっと普通の服はある?」 何の用、ときらきらした目で見上げてくる彼らに用事を頼むと、彼女は部屋を見渡した。 柔らかい絨毯に、緻密な細工を施された上に丁寧に仮漆の塗られた美しい家具。身体が深く沈み込むふかふかの寝台のどれもが、彼女には過ぎたものだ。 「――此処はお姫さまのための場所であって、あたしの居場所じゃないもの」 今まで此処で安穏としてきたのも、あくまでかの姫君の身代わりとしていたからで、その役目を終えた今、それを享受する資格は自分にはないような気がした。 それに。 「……この部屋には居たくないわ」 間もなく、困ったような顔の妖精が服を抱えて戻ってきた。礼を言って受け取ると、きゃらきゃらと楽しそうに笑い声を上げながら彼らはまた何処かへ去っていった。 木綿の質素な服は驚くほど肌に馴染んで、アマーリエは苦笑した。 「さて、どうやって此処を出たものかしらねぇ……」 妖精たちのように壁や扉を擦り抜けるようなことは出来ないし、かといってあの魔法使いのように魔法が使えるわけでもない。 何か使えるものはないかとおもちゃのような部屋を見回して、結局彼女は原始的な手段に訴えることにした。 * ツィレルは彼女の部屋を後にしたその足で、王城の中央――謁見の間に降り立った。 深紅の絨毯を目で追っていくと、数段高いところにしつらえられた玉座に座り込んだあの国王が居た。 零れんばかりに目を見開いているのがやけに可笑しくて、彼はくつくつ喉の奥で笑った。 そしてその隣では、蜂蜜のようなまろやかな金髪の美しい姫君が父親そっくりの紫水晶のような目を同じように丸くしていた。 アマーリエよりもずっと綺麗な娘だ。 「こんにちわ」 「……何者ですか、お前は」 突然現れた男に、警戒心をむき出しにして姫君が問いかける。 「警備の者はどうしていますか!」 叱責するような声が震えていることに気付いた者はどのくらいいることか。 別にどうでもいいことだけれど、と彼は悠然とした態度で貴族の所作通りの礼をする。 「警備の方は多分眠っていますよ。僕の用事は其処の狸一匹なので」 「た……?」 「約束を違えた王さまにはそれなりの代償を支払って頂かなくてはならないので、面倒ながら取り立てに参った次第ですよ、国王陛下?」 皮肉げな微笑は酷く冷たく、鋭い刃の切っ先を喉元に突きつけられたような重圧が彼らに圧し掛かる。 「やく、そく?」 事情を一切知らないディアノーラは父親を振り返る。 顔が白く見えるほど青ざめた国王は、それでも精一杯の威厳をもって不吉な訪問者と向かい合う。 「皆まで言うな、魔法使い」 「そうですか。娘思いなのは結構ですが、――彼女に仕掛けた魔法はやりすぎだ」 零下の眼差しはその一瞬、怒りを孕んで痛いほどの熱を持った。 「お父さま、一体何が……」 「お前は下がっていなさい、ディアノーラ」 「嫌ですわ」 相手を心配するが故に互いに引かない父娘のやりとりをしばらく眺めていたツィレルは、いい加減飽きたのか杖を一振りして彼らに水を被せた。 激昂した王さまが顔を赤くして魔法使いに詰めかかる。 「何をするかッ」 「それはこちらの台詞です」 「……」 「実のところ、報酬なんてどうでもよかったので別のものと取り替えたりしても良かったのですが――」 彼の足元で、火のように走る鈍い赤光が円や複雑な文様を描いて陣を形作っていく。 「卑怯な手段を使ったからには、それなりの報いも覚悟なさっていることでしょう?」 とん、と絨毯の上に杖の先が振り下ろされる。 完成した魔法陣から目も眩む光が場を満たし、彼らは反射的に目を瞑った。 けれど、ほんの数瞬で温度のない眩い白光の波は引いていく。 そうっと瞼を上げたディアノーラは、まず目の前にいたはずの魔法使いの姿が消えていることに刮目し、続いて隣で倒れ伏している父親の姿を見つけて声の限りに悲鳴を上げた。 * あまり楽しくない気分で塔に戻ってきた彼は、空っぽの部屋を前にして呆然と立ち尽くしていた。 「……まさか、ここまで凶暴だとは」 しかも知能犯。 ばらばらになった椅子の残骸が扉の前に散らばっているが、分厚い木製のそれには深い傷が付いたものの、ひとが通れるほどの損傷を与えることは出来なかったらしい。 壊すことを諦めた彼女は食事用のナイフで蝶番を破壊したらしく、投げ捨てられた歪んだナイフと蹴倒された扉が虚しく彼の前に横たわっていた。 火事場の馬鹿力とはかくも恐ろしいものなのか、と彼は感嘆すら覚えた。 混乱した妖精たちがおろおろと部屋中を走り回っているのを呼び止め、片付けを命じると彼は階段を下って彼女の逃走経路を辿る。 途中で華奢なつくりの靴が脱ぎ捨てられているのを見つけて、本格的な目眩を覚えた。 「……これだけ無鉄砲な人間をあれだけ大人しくさせたあたり、かなりの手練れだったのか」 禁忌としてツィレルですら忌む、精神に干渉する魔法のことを思い出して深い溜息がもれる。 彼女にかけられていたのは主に忘却の魔法だったが、人間を無気力にする式も組み込まれていて結構に面倒な代物だった。 「それにしても、早く連れ戻さないとまずいな……」 魔法使いの住まう塔を囲む森は、近隣の住民が『帰らずの森』と呼んで決して近寄ろうとはしない魔の巣窟だ。 あちこちに厄介な魔法がかけられている上に多くの獣が棲んでいる。 そんな場所にろくな装備も持たずに入るのは勿論、冬に入った今の時期に裸足で外を歩こうとするのも充分に自殺行為だ。 無意識のうちに舌打ちをしながら、彼は早足で塔を下っていった。 |