おとぎばなしの外で  [ 後 ]


塔に閉じ込められているときから暗い森だと思っていたが、こうして実際に足を踏み入れてみるとアマーリエの想像以上に気味の悪い雰囲気が辺りには立ち込めていた。
足裏の冷たい土の感触にぶるりと身体を震わせて、彼女は竦む膝を叩いて気合を入れ直す。
吐く息は白く、このまま夜を迎えたときには凍死も危ぶまれるほどに空気は冷たい。
夕暮れ時の、燃え尽きた灰のような色をした曇天を眺めやって、彼女はどうしたものかと眉を下げた。
「やっぱり靴、捨ててくるんじゃなかったかしら」
走るにはあまりに窮屈だったので思わず投げてしまったのだが、外に出るということを考えれば愚かな行為だった。
塔を振り返る。空を覆う灰色の雲に融け込みそうなほど遠く高い最上階を見やって、彼女は戻るという選択肢を切り捨てた。
どうせ、何処で放ったかも分からない靴を探している間に塔の主に見つかってしまうだろう。

――此処に連れて来られたのは、確か初夏の頃だったように思う。
薄暗い緑の道を、繊細な白いレースで編まれたヴェールと揃いの衣装を纏って歩いた。
花嫁のようにも見えるそれが少しだけ嬉しくて、そう自覚した次の瞬間に酷く虚しい気分になったことは、今でも鮮明に覚えている。
しかし異形の妖精たちに驚き、その列を見失わないよう追いかけるのに精一杯だったせいで、どういう道筋を辿って来たのかはさっぱり覚えていない。
思い出すのは、鮮やかな濃い緑を通して零れる光が弱々しく地面を照らしていたことと、それを美しいと思っていたことぐらいだ。
同じような景色の中をぐねぐねとやたら曲がった記憶も僅かにあるから、よほど方向感覚や距離の把握に優れている人間でないと来た道を辿ることなど出来ないだろう。
「……もしかしなくても、死ぬかしら」
理性は戻れと忠告している。
「でも、今のあたしに残ってるのは意地ぐらいのものよ」
扉も思い切り破壊して逃げ出した自分には、保護を申し出た彼と合わせる顔は今更ない。

深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐く。
服の裾を裂いて足に巻きつけると、アマーリエは森の奥へ向かって歩き出した。


一階の大広間まで、彼女が隠れていたりはしないだろうかと捜しながら階段を下ったツィレルは、開け放された大扉とその向こう側でちらちらと舞い積もる白雪に気付いて眉をひそめた。
「……しまったな、雪だ」
間が悪すぎる。
「凍傷になる前に見つけられればいいんだけど」
『帰らずの森』、或いは単に『魔法使いの森』と呼ばれる広大な黒い森は、実のところ彼の支配下にあるわけではない。
森の主と契約を交わした数代前の魔法使いが、塔近辺の土地を借り受けただけの話である。
「……ヌシと連絡を取った方が早い、かな」
現在の森の主は東の湖に巣を持つ銀色の大きな鳥のはずだ。
魔法の制限される魔の森の内では、世界で五指に入る優秀な魔法の使い手の彼とて移動に陣を必要とする。
うっすらと積もり始めた雪を杖の先で引っかいて、彼は森の主のもとへ急いだ。


冷たい、を通り越して痛みを感じる両足を引きずるようにして歩きながら、彼女は凍った森を彷徨う。
不意に頭上が開けて顔を上げると、薄闇に混じって、真白の初雪がアマーリエの肩や髪に降り注いだ。
熱を持ったかのようにぼんやりとした思考は壊れたように「寒い」と「綺麗」をぐるぐる脳内で繰り返すだけでさっぱり使いものにならない。
注意力が著しく低くなっていたせいか、張り出した木の根にも気付かずに見事に頭から地面に突っ込んだ。
「いった……」
おそらく擦ったのだろう頬や掌、膝に、体温で融け始めた雪が沁みる。
「いたいいたいいたい」
刺激から逃げるように仰向けになる。既に立つだけの気力も体力も失われていた。
手についた赤や茶混じりの雪と、顔に被さる凍りついた髪を払って、闇を舞う雪をぼんやりと目で追う。
近くに生き物の気配はなく、風も止んで、耳が痛むほど静かで何もない。
時すらも凍えたような静寂。

「このまま、凍死、っていうのは、……あたしにしては随分と綺麗な終わり方、ね」
どうせ途中で獣に食われるのだろうが。
「……ばかよねぇ……」
自嘲の声も周囲にあっという間に吸われていく。
それにしても、寒くて眠い。
何かに誘われるように自然と瞼が下りて視界をふさぎ、アマーリエは抵抗することもなく素直に意識を手放した。



**



――遠く、重い鳥の羽音を聴いた気がした。

冷え切った身体に、じわりと染み渡っていくのは柔らかな熱。


絵の具を水に溶かしたのような、薄く透明な青い光が真白の雪の上を細く走る。
ひらひらと揺れて尾を引くそれは、先刻ツィレルが地面に刻んだ陣と寸分違わぬ模様を描いてやがて溶けるように消えた。
異変の鎮まった後には、暗い色のローブを羽織って佇む青年がひとり。
「……ヌシ?」
戸惑い気味に投げかけられた声に応えるように、何処からかギャァ、としわがれた鳥の鳴き声が響いた。

彼の目前には、枯れた大樹の大振りな枝に枯葉や枯枝を集めて作った、ひとひとりがすっぽり収まるほどの大きな巣があった。
けれど、そこに棲んでいる鳥が先ほどの鳴き声の主であるはずなのだが、どういうわけか巣は空っぽだった。
気配が色濃く残っていることからしても、先ほどまで此処に居たのは間違いないようなのだが、彼が巣を離れるという滅多にない事態に、ツィレルは首を傾げた。
「……何処に行ったんだ?」
辺りを見回していると、呼びかけるような響きのこもった鳴き声が再び耳に届く。
声を追い、導かれるまま歩いていくと、間もなく楡の木の下でうずくまる巨大な影が見えた。
「――ヌシ?」
そんなところで何をしているのだろうか。
すぐ傍まで近寄ると、彼は大きな翼を軽く広げて彼に応えた。

背はツィレルの腰のほど。たたまれた翼をいっぱいに広げれば恐らく彼の背丈の倍近い大きさを誇るだろう。
ちぐはぐな長さと色の羽がびっしりと身体に生えている。子供が滅茶苦茶に塗りたくった松ぼっくりにも似たずんぐりとした巨躯の中で、一際目立つのは美しい黄金の嘴だ。
色とりどりの羽根の奥から覗く、流動する銀色のぎょろりと大きい眼が彼を正確に捉える。
醜い外見に似つかわしくない知的で思慮深げな賢者の眼差しは、今は亡くなった師匠にも似ていて、彼は敬意を示すために腰を折って一礼した。
「ひとを捜しているのですが」
話を聴いているのかいないのか、森の主は突然その大きな翼を広げて、鈍い風切り音を立てて宙に躍り上がった。
翼が振られる度に、金属の光沢を持つ赤や黒や緑の羽根が動きに合わせてばらばらと散っていく。
その足元で、降り積もる羽根や雪に半ば埋もれているものに、彼は目を丸くした。
――雪塗れの金の糸。

「アマーリエ」
慌てて駆け寄って身体の具合を調べる。
意識はないが呼吸は安定しており、擦過傷や凍傷を負っていたが深刻な状況ではなさそうだ。
ほう、と安堵に溜息を付くと、悠然とした動作で巣に戻っていく森の主を振り返る。
視線に気付いたのか、ちらりとこちらを向いた銀色に心からの礼を述べると、彼は満足げに翼を大きく振って森の奥へ消えていった。

*

――あたたかい。
氷が溶かされていくのにも似た、ゆっくりと満たされてゆく感覚に促されるように瞼を上げると、燃え盛る赤い炎がまず目に留まった。
定まらない視線が暖炉をかき回す鉄製の熊手をまず捉え、そしてそれを持つ誰かの姿を見つける。
誰だろう、と覚めたばかりの鈍い意識が思い出す前に、あの蒼い目が彼女を見下ろしていた。
「気が付いた?」
「……どこ、ここ」
首を巡らせると、分厚く古めかしい書物が詰まった大きな本棚や、幾何学的な図形や文字の記された紙、怪しげな薬品の詰まった瓶がところせましと置かれた机などが視界を流れていく。
明らかに見覚えのない場所だった。
彼は少しだけ口の端を上げて、「僕の部屋」とあっさり答える。
「……」
ということは、どうやら自分はあえなく彼に発見されて連れ戻されたらしい。
「鳥、が。いたと思ったんだけど。大きくてあったかい」
「森の主だよ。彼が君を見つけてなければ、今頃冥府への階段を下ってた」
ふつりと会話の糸が途切れて、舞い降りた静寂の中で薪の燃える音だけが響いた。
突然湧いた沈黙に、けれど不思議と気まずさは感じなかった。単に寝惚けているだけだろうか。
それでも今までより遥かに心地良い空間に再び気持ちが緩み、疲れた身体が睡眠を求めて瞼が下がり始める。
「まだ寝る?」
いつになく優しい響きの問いに、ふわりと包まれるような気がした。
「……ん。いい、起き――ッたぁ!」
頭を起こしかけたところで、額を容赦なく彼の指が弾かれて、アマーリエは思わず寝台に倒れ込む。
何か物凄く覚えのある展開だな、と思いつつも抗議するべく顔を上げようとした瞬間、呆れたと言わんばかりの冷たい視線がざくざくと突き刺さる。
反射的に縮こまって上目遣いに様子を窺うと、今度は苦笑が降ってきた。
「寝てなさい。起き上がらなくても話くらい出来るよ」
いつになく強い調子でそう言うと、彼は椅子から立ち上がって隣室へ消える。


ぱたん、と軽く静かに扉が閉められる音を聞きながら、彼女はずるずるとシーツの上に身体を崩した。
先ほどまで安心しきっていたはずなのに、ひとりにされるとまた何処からともなくさざなみのように理由のない小さな不安が押し寄せてくる。
「……やだなぁ」
身体が疲れていると心まで弱るからたまらない。
病は気から、とよく言うが、逆とて真実だとアマーリエは苦い思いに口元を歪めた。
何とはなしに枕を抱き締めてごろごろと転がる。すぐに端に行き着くので繰り返していると目が回りそうだ。
アマーリエに宛がわれていたものとは違い、随分と簡素な造りのこの寝台はおそらく彼が普段使っているものなのだろう。

――。

「……何でそこで赤面するのあたし」
鏡は見ていないが確信できる。絶対赤くなっている。
熱くなった両頬を押さえると、アマーリエは膝を畳んで顔を埋めた。
落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせる。その拍子に、思わず力を込めてしまった手に走る痛みに「ぎゃッ」と色気のない声を上げてまた悶え転がった。
「……そうだ、凍傷……」
見ると、手も足先もきちんと手当てがされていた。
五本の指全てと掌に丁寧に巻かれた包帯をまじまじと眺める。几帳面さを感じさせる巻き方だったが、端の処理は片結びだった。
くす、と笑みが零れる。

「――アマーリエ?」
「うわぁぁ、はいッ何!?」
突然耳に届いた、不思議そうに名前を呼ぶ声に、扉に背を向けていた彼女は飛び上がりそうなほどに肩を竦めてあわあわと振り返る。
一瞬あっけに取られた彼は、首を傾げながらも手に持ったカップを示した。
「いや、飲みもの持ってきたんだけど。大丈夫?」
「貰う貰いますありがとう」
壊れた人形のようにがくがく首を振るアマーリエをさすがに不審に感じたのか、彼は訝しげな顔つきで額に手を伸ばした。
「……熱でもある?」
「ないないない、ない、ないから触んないでー!」
自分でも何を言っているのか把握し切れていない彼女は、泣きそうな表情で寝台の上を後退る。
下がりすぎて壁に頭を思い切りぶつけた。

「い、いた……」
「何か見ててとても面白いけどとりあえず怪我人なんだから落ち着いてね」
うずくまる彼女の頭を撫でてやると、困り果てたと言わんばかりの潤んだ薄紫の目とかち合って、何となく気まずくなった彼は手を離す。
そのときの、ほっとしたようで、少し寂しげにも見える瞳の色の正体が分からずに、彼は再び首を傾げた。
「蜂蜜入りの紅茶は嫌い?」
真新しい包帯が痛々しい、細い指にカップを手渡す。
「……好きよ」
一拍間を置いてから返ってきた硬い声に、警戒されたかとツィレルは内心で舌打ちした。
このような状態では、おそらくまともな話し合いは出来ないだろう。
最初の一歩に躓いたような苛立たしい気分で自分の分の紅茶を啜る。重い泥のような沈黙がそれを後押しして、彼は溜息を付いた。
今は、自覚が薄いようだが随分と衰弱している彼女を休ませる方を優先するべきだろう。同じ部屋に自分がいては気も休まるまい。
「――隣の部屋にいるから、何かあったら呼んで。……おやすみ」

*

「……」
隣室へ消えた気配を探りながら、彼女は手にしたカップを軽く回した。その動きに合わせて、まろやかな黄金色の水面が幾度かゆらめく。
自分の髪より大分赤味を帯びた色の紅茶の温かさは、一口飲む度に身体の芯に広がっていく。甘くて美味しい味わいを素直に楽しんでいると、強張っていた肩の力も抜けた。
先ほど気付いたが、擦りむいた膝まできちんと手当てがされている。
しばらくの間、恥ずかしいような嬉しいような申し訳ないような気持ちが混沌としていたが、次第にひとつにまとまっていった。

立ち上がって歩けるかどうか確かめる。それほど無理をしなければ問題はなさそうだ。
「問題は防寒と、森を抜ける方法よね」
特に後者は問題だった。「ま、どうにかなるわよね」と小さく呟いて、今度は窓を探し始める。随分と高い位置にあるそれを見つけて、彼女は眉間に皺を寄せた。
今晩中に出て行くことは無理だと分かっているが、自分がいる位置だけでも知りたかった。
「あの高さだと椅子に登っても無理っぽいなぁ……」
仕方ない、と彼女は寝間着に毛布を巻き付けて廊下へ続いていると思われるもう一方の扉へ向かう。
音を立てないように慎重に開いて、するりと滑るように外に出た。
包帯を巻いただけの足の裏にひんやりどころでない冷たさが沁みる。
急ぎ足で階段を下りていくその後姿を、呆れと怒りと疲労の色を刷いた蒼い目が見ていたことに、彼女は気付かなかった。

階段は思ったよりもずっと短かく、目算で数階分を下ったところで一階の大広間に行き着いた。
塔の入り口である二枚の大扉は、夜のせいかそれともアマーリエの逃走を警戒してか、堅く閉ざされている。
これ以上身体を冷やしてもいいことはないし、部屋を空ける時間が長くなればその分気付かれる可能性も高くなるだろう。
そう思って踵を返したところで、階段と広間を繋ぐ扉が残酷な音を立てて開いた。

「寝てなさい、って言ったはずだよね、僕」
酷く醒めた眼がアマーリエの紫の瞳を射抜く。非難するような眼差しから逃れようと、反射的に彼に背を向けて駆け出した。
「アマーリエ!」
珍しく声を荒げた彼が階段を駆け下りる。
追ってくる足音に焦った震える手が、それでも追いつかれる前に何とか閂を抜いて片方の扉を押し開けた。
そのまま転げるように吹雪の夜へ飛び出していく。
――けれど、その足が雪を踏む前に彼女は彼の腕に捕らえられた。
走り出そうとしていた反動で体勢を崩す彼女を抱き留めて、彼は軽く咳き込んだ。
僅かに生じた隙に逃げ出そうとした彼女を抱え直して動きを封じる。
様子を伺いに顔を出した妖精たちに扉を閉めるよう言いつけ、閂の前にわらわらと集まっていく彼らを横目で捉えると、彼はアマーリエの腕を引いて早足で歩き出した。
「離して」
「駄目。――どうして逃げた?」
狭い階段室では音がよく響く。耳に残響するその声に、アマーリエは唇を引き結んで彼を見上げる。
「逃げようと思ったわけじゃないわ」
「どういう意図だろうとやってることは変わらないよね」
何を言っても通じないと諦めたのか、今度は項垂れたまま何も言わない。
そのことが更に彼を苛立たせているのに彼女は気付いていない。言葉を交わすこともなく階段を上ると、暖かな空気が彼女を出迎えた。

部屋の入り口で青年は数瞬逡巡を見せて、結局幾分古びた感じの漂うソファに腰を落とした。
腕を掴む力が一瞬緩んだのを見逃さず、振り切って走り出そうとした彼女の腰を捕らえて引き寄せる。
「ちょっ、離してよ」
「さっきも逃げようとした人間が何言ってるの。本当、何度逃げれば気が済むのかな、君は」
溜息が耳にかかってくすぐったい。背後から抱きしめられる格好から抜け出そうともがくが、彼はびくともしない。
それどころか、あがけばあがくほど腕に込められる力が強くなって、アマーリエは余計慌てた。
「離してってば!」
「やだね」
何処となく声の雰囲気が拗ねた子供のそれに似ている気がして、アマーリエは気が抜けた。
その拍子に涙腺まで緩んだのか、まなじりがじんわり熱をもつ。

「……どうして」
吐息に混じった掠れ声を聞き取り損ねたのか、僅かに顔を近づけてくる。
「何?」
「どうして放っておいてくれないの」
考えるより先に言葉が口を突いて出た。
「お姫さまは、要らなかったんでしょう。ならあたしだって要らないじゃない」
「……」
「確かにあたしには行く場所はないけど、そういうことで同情してるならやめて」
僅かに上ずって震える声は、笑っているからか泣いているからか。
判別がつかないアマーリエは、上手く笑えていることを祈った。

「……何か物凄く勘違いしてるみたいだけど」
魔法使いの口から零れた意外な言葉に、彼女は不思議そうに後ろを仰いだ。
夜の闇と暖炉の火を受けて、藍色に青に揺れる眼が彼女の瞳を捕らえた。
杖よりも呪文よりも何よりも、真摯な光を宿すこの眼こそが魔法の力を持っているようだとアマーリエは思う。そらしたいのにそらすことが出来ない。
「僕は別に君に同情したわけじゃないよ。そんなに情に厚い人間じゃないし」
言い聞かせるように、或いは言葉を選びあぐねて迷っているかのように、彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「具合の悪い人間を見捨てるのはさすがに良心が痛む?」
「そうじゃない。――何でこんなに鈍いのかな、君」
「何がよ」
「……」
黙りこくった彼をアマーリエは見上げる。青年は初めて途方に暮れた子供のような顔を見せた。
そのままじっと見つめ続けていると、視線に堪えかねたのかがっくりと肩を落とした。
「一度しか言わないから」
「だから何よ」
若干早口になった彼は、アマーリエに急かされてためらうように目を彷徨わす。
袖を引っ張って催促すると、覚悟を決めるかのように深く息を吸った。

「好きだ」

時間が止まった。
「………………………え?」
意味は理解した。理解したが――
「もう言わない。絶対言わない。――分かった?」
返事は聞かないことにしておくよ、とやたら清々しい不気味なまでに爽やかな笑顔を浮かべて付け加えると、彼はアマーリエの口の端に軽いキスを落とす。
「なっ、ちょ、は、え、えぇ?」
思考が混乱しているうちに、彼は彼女を抱え上げて寝台に放り込む。
毛布をかけられてようやく現在の状況に気付いたときには、彼は既に隣室に消えるところだった。
「それじゃあ今度こそおやすみ、アマーリエ。また明日」

ぱたん、と無情にも閉じられた扉に手を伸ばしかけてやめた。
「な、何だったの今の……」
思わず唇を指で押さえると先ほどの感触が蘇って、彼女は顔を真っ赤にしながらその場で頭を抱えた。
「もうやだ何なのよー!」
わけが分からない。
何より分からない――というか分かりたくないのはキスをされようとも嫌な気分がしなかったということなのだが、彼女はその問題を自覚する前に重い蓋を被せて封印した。
溜息をひとつ。

「寝よう……」

最早自分に何が起こったのか反芻する気にもならず、彼女は毛布を被り直して枕に頭を預ける。
暖かく心地良い空気に包まれるのは気分が良い。
ついでにこの場所から逃げようとする気持ちが失せたことに気付いて彼女は少し眉を寄せたが、眠りに落ちる直前の快さの前には既にどうでもよいことだった。
すとん、と落ちるように意識が吸い込まれていく。
眠る彼女の口元には、幸せそうな小さな微笑。

からっぽの硝子の器に、柔らかな清水が満たされる夢を見た。